2017年1月4日(水)〜2月19日(日)11時〜18時 ※期間中の月,火(1月10-11, 16-17, 23-24, 30-31, 2月6-7,13-14)は休廊。
銀座レトロギャラリーMUSEE(ミュゼ)1階ギャラリーA・2階ギャラリーB、Cほか【料金】入館無料
開催趣旨
MUSEEの可能性を引き出す
銀座の未来について考える企画展と聞いて、そんな思いが浮かびました。
銀座には時間の中で培ってきた多くの魅力・蓄積があります。しかしその豊かさ故に、未来が描き難いとも言われています。銀座のみならず、明治維新・敗戦・高度成長期と「不足」をバネに未来を描いてきた日本にとって、次の100年は、それに代わる新しい価値観が求められているようにも感じます。
MUSEEは築100年にも届こうとする建築です。超高層ビルも建ち始めた銀座において高さ10m程の大きさで昭和通りに踏ん張り続けるその姿は、微笑ましくもあり、未来に向けた新しい価値観・メッセージを、すごく小さな声で発しているようにも思えます。MUSEEは一体どんなメッセージを発しているのだろう。その声は大きく出来ないのか。それが本展のテーマです。
本展では、1・2・3階そして屋上に、それぞれ1つずつ、銀座を考えるための展示室を計画しました。それぞれの部屋には、訪れた人々が銀座について考え・語り合えるようなテーマが設定されています。収集物や学生たちの提案、リサーチにインスタレーションと、出品作品も多岐にわたります。
建築の完成に向け、検討を繰り返すことを「スタディ」といいますが、この展覧会は言わば銀座の未来を共に考えるためのスタディ展です。この場所が、銀座の未来について考え、語り合い、何らかの想いを持ち帰ってもらう…そんな場所になってもらえればと考えています。それは展覧会の目標でもありますが、ひょっとしたら、それはMUSEEの可能性そのものなのかもしれません。
建築家 菊池甫・山本展久
ごあいさつ
川崎ブランドデザインは、おかげさまで創業100周年を迎えました。創業者が指し示した「誠実」という社訓を、建築事務所、建設会社、企画ギャラリーと時代と共に形態を変えつつも、100年間守り貫いて参りました。全てのプロジェクトに堅実に取り組み、多くのお客様と関わり、それが支え、励みとなり迎えた100周年です。ここに深く感謝申し上げます。
東京銀座、そして新たに取得したNYウォール街という2大拠点から、建築やアートの可能性を追求し、都市景観を考えるきっかけになる企画を生むことが、次の100年に向けた礎となります。本展は、その試金石となる展覧会です。心ゆくまでお楽しみ下さい。
川崎ブランドデザイン有限会社 代表取締役ディレクター
銀座レトロギャラリーMUSEE 代表 中小企業診断士
本展プロデューサー
川崎 力宏
これまでの100年、これからの100年
大分 1917- 総ては、ここからはじまった
1917年(大正6年)、東京駅を設計した辰野金吾 博士による重要文化財 赤レンガ館の施工に携わり、創業しました。以来4代に亘り、誠実という社訓のもと「名建築を後世に残す」美意識を持ち、株式会社 佐伯建設を経営。九州を代表する建設会社と呼ばれるまでに育て上げました。宇佐神宮 宝物館、大分市美術館など美術館建築に関わり、建築家や美術家の思考に触れ、コラボレーションを実現。九州大分を中心に、都市創りに邁進してきました。
創業者 川崎喜一(1895-1975)棟梁として、英国輸入の赤レンガ、白御影石の「辰野式」、明治正統派の洋館建築を手がける。 戦災で外壁のみ残し焼失。/ 2代目 川崎力太(1923-83)が修復。戦後復興の象徴として市民に歓迎された。昭和24年頃。/ バブル期の建替計画を、3代目 川崎裕一(1953-2011)が地銀に直談判し阻止。95年リニューアルしBELCA賞受賞。/ モダニズム日本建築で有名な大江宏と取り組んだ宇佐神宮宝物館。美術館建築の名手、内井昭蔵による大分市美術館。/ 伝説の美術集団ネオ・ダダで活躍した風倉匠(1936-2007)と文化都市のあり方を模索。由布院の地域おこしに深く携わる。
銀座 2012- 銀座の歴史を語る近代建築を舞台に、企画展を開催
2012年、都内にて独立し、銀座の不動産を取得。建替えによる解体を阻止し、保存を決意。銀座に残る近代建築の魅力を引き出し、銀座レトロギャラリーMUSEE(ミュゼ)を開廊。観る者の思考力を掻き立てるべく、都市景観と時間軸、現代世相を反映させた美術をテーマに、作家、建築家とともに企画展を開催。また、有名ブランドの企業ブランディングプロモーションにも参画するなど、常に新しい価値観を発信しています。
海外展開 2017- NYウォール街を基軸に国際展開
2017年、創業100周年。ニューヨーク金融街の歴史を創った旧証券取引所ビル(55Wall Street /築180年)を取得。同時に、米国法人Kawasaki Brand Design INC.を創設。躍動する国際経済との連携を視野に英国リバプール、バンコク、ホーチミン、フィリピン マニラ・セブ…と未来の都市景観に投資してまいります。建築、デザインに挑み続けた100年。国境を超えた新たな挑戦が、今始まっています。
MUSEEの可能性を引き出す
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2階は、多摩美術大学環境デザイン学科の学生さんによる仮想リノベーションプラン を12案を展示しています。監修いただいた岸本章教授は、近代建築はもとより国内外の古い建築を訪ね歩き、記録されています。
今回は、銀座のMUSEEを実技課題として選んでいただきました。カフェ、シェアオフィス、ライブハウス、ヴィンテージカーのショールーム、個人住宅、浮世絵ミュージアム、植物プラントと、若い学生さん達のイノベーティブで個性的な提案に、驚かされます。建築というハードだけでなく、ソフト(ビジネスモデル)も真摯に考えられており、銀座の人々が心地よく回遊するMUSEEが示されました。
アーキディレクションの菊池甫さん、山本展久さんによる、「昭和通り」のリサーチインスタレーションが、会場に華を添えます。「延床面積・お金・年月」という3つ軸で 、チョコレートやコイン、トランプ、ケーキと直感的に指標が提示されています。MUSEEは、チョコレート1粒の延床に対し、歌舞伎座ザ・タワーは698粒とのこと。昭和通り沿いを、楽しく俯瞰することで、鑑賞者に新しい発見をしてもらいたいという願いが込められています。
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1階は、「銀座を訪れる Memory」をキーフレーズに、過去の銀座を、希少な絵葉書37枚でプレイバック します。明治の官製による赤煉瓦街、関東大震災の復興、百貨店進出。日中戦争、高度経済成長と走馬灯のように銀座を振り返ります。
壁面に投影するプロジェクターでは、100年間、建築、デザインと関わり歩んできた弊社 川崎ブランドデザインの社歴を上映。190スライドで振り返ります。本展を記念して制作されたロゴ(K100)の真鍮製モビール5体(高上旭氏デザイン・製作)が黄金の光を輝かせ、異空間を作り上げています。
会期中イベント
銀座たてもの展 実行委員会 のご協力のもと、毎週末にギャラリートークイベントを開催することになりました。
銀座の都市景観、建築デザインに関わって来られた素晴らしい方々をゲストに迎えます。銀座を深く知り、益々好きになれるはずです。各回定員20名となります。興味ある方は是非、事前にご予約ください。
謹製ミニMUSEE。建築家 山本展久氏による1/1000スケールの銀座レトロギャラリーMUSEE(ミュゼ)の極小模型。展覧会場3階で公開する、真鍮版を駆使して制作した「銀座街区」に乗せて都市景観を考えるアイテムとなります。崖岩に見える黄金小石マグネット付。
2017年1月4日(水)11:00〜 オープニング 新春 お屠蘇(とそ) サービス
2017年1月14日(土)18:30~ 「これからの銀座の街について」
ゲスト:竹沢えり子氏(銀座街づくり会議・銀座デザイン協議会 事務局長)
慶應義塾大学文学部卒業。2011年、東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了。博士(工学)。博士論文にて日本都市計画学会論文奨励賞を受賞。著書『銀座にはなぜ超高層ビルがないのか』(平凡社新書)、共著に『銀座 街の物語』(河出書房新社)など。
参加費:500 円( 謹製ミニMUSEE お土産付き) 定員:20名(要メール申込・先着順) ※大盛況のなか終了しました。
2017年1月14日(土)に開催されたイベントの様子です。ゲストに、竹沢えり子氏(銀座街づくり会議・銀座デザイン協議会 事務局長)をお招きし「これからの銀座の街について」ご講演いただきました。
銀座は、他の街とは比較されることのない唯一無二の存在として、専門店の商人たちがプライドを持ち、積極的にまちづくりに参画してきた歴史的経緯をご説明いただきました。単なるモノの売買だけなく、きめ細やかな信頼の構築こそが、銀座らしさの原動力であり、「銀座のお店だから安心」という良い関係をこれから将来も繋いでいって欲しいとのこと。
戦前、住居を構え商売をする住人も多かったという銀座。現在は商業施設が優先され、オーバーストア状態にある指摘もあるそう。銀座の店頭で働く人が、実は消費者でもある現状から、地区計画での優遇、用途変更を模索する時期ではないかという最新の議論を教えていただきました。(あえて住居を誘導し、滞在型のホテルのような、広さのある高級コンドミニアムというアイディアには驚きでした。)
年間300件を超える建築や看板の申請を、1件づつ丁寧に議論を重ねて「銀座らしいか」を審査するお仕事についてもお話いただきました。騒音を出すデジタルサイネージや、最新のガラス投影技術など、イタチごっこの昨今。銀座は、森永の地球儀ネオンなど新しい看板表現を認めてきた過去もあるため、数値や色合いだで機械的には判断しないとのこと。「建築そのものの美しさ」「(ヒューマンスケールの)ショーウィンドウ」を優先し、その瞬間しか立ち会わなければ体験できない表現を大切にしていくという新たな指針を構想中とのことでした。
最後に、銀座で起業家精神が育まれることについて。明治・大正と、銀座で生まれたモノやサービスが多数存在するように、未来のスタンダードが銀座で生まれて欲しい。「銀座で育ててもらった感覚で、世界で活躍してもらうことこそが最大の発信力」と締めくくっていただきました。
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2017年1月21日(土)18:30~ 「銀座建物ものがたり銀緑館」上映会&トーク
ゲスト:石川信行氏 西松典宏氏(銀座奥野ビル306号プロジェクト)
銀座6丁目、かつて「銀録館」という小さなビルがあった。関東大震災後に建てられ、大規模な再開発により2013年に歴史の幕を閉じた。地下には剣持勇・渡辺力デザインの「BAR TARU」、3階には「現代画廊」、5階には「テーラースコット」があり、文化の香りの漂うビルだった。銀録館の誕生、建物の特徴の紹介、関係者の声など、ビルの歴史と物語に迫ります。
参加費:無料 定員:20名(要メール申込・先着順) ※大盛況のなか終了しました。
2017年1月21日(土)に開催されたトークイベントの様子です。ゲストに、石川信行氏・西松典宏氏(銀座奥野ビル306号プロジェクト)をお招きし「銀座建物ものがたり銀緑館」上映会とトークをしていただきました。
今春、銀座六丁目、新たに「ginza six」として生まれ変わる松坂屋跡地。街区を一つにする異例の再開発で、そこには
かつて「銀録館」という小さなビルがありました。地下には剣持勇・渡辺力デザインの「BAR TARU」、3階には「現代画廊」、5階には「テーラースコット」があり、文化の香りの漂うビルでした。
石川信行氏・西松典宏氏(銀座奥野ビル306号プロジェクト)は、元テレビ番組のディレクターとして、番組制作に関わった経歴から、銀録館の誕生、建物の特徴の紹介、関係者の声など取材し、映像にまとめられました。ビルオーナーの実業家であり国際的な美術収集家だった松岡清次郎(1894-1989)が、どういった経緯で誰に設計や施工を依頼したかと、お二人が様々な文献や実地のリサーチを行ない、ビルの歴史と物語に迫ったドキュメンタリー映像に、引き込まれながら鑑賞しました。
トークでは、撮影時、昔の電話帳を調べ上げ、設計者が「濱田勝次」だと見つけたときの感動をお話いただきました。現在は、同じ近代建築である「銀座奥野ビル」に纏わる文化人について調査をし、映像を制作されているそう。
会場には、銀録館で「テーラースコット」を45年間、ビル解体の直前まで営まれた川島良夫さん(85歳)と奥様もご参加いただきました。手仕事に拘り、極力ミシンを使わずに、丁寧に仕立てる職人肌の川島さんは、多くの著名人を含む顧客に愛され、仕立てた洋服は数しれず。店を閉じた現在も、昔のお客様の洋服のメンテナンスに精を出されてるエピソードに、銀座ならではのお客様との信頼関係を垣間見ることができました。洋行帰りの松岡清次郎が、テーラーに立ち寄り、喫茶店代わりにお茶を出したエピソードなどを懐かしそうに語っていただきました。
古き良き昔の銀座にタイムスリップしたようなイベントとなりました。
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2017年1月28日(土)18:30~ 岸本Labo「海外のリノベーション事例」2階展示監修の岸本章氏による特別講座
Laboマスター:岸本 章氏(多摩美術大学環境デザイン学科教授)
東京都生まれ 1979年、多摩美術大学美術学部建築科卒業 1982年、東京藝術大学美術学部大学院修了 1982~1985年、山下和正建築研究所 1986年~岸本章設計所 1988年~多摩 美術大学建築科非常勤講師 1999年~多摩美術大学環境デザイン学科助教授 2007年~准教授 2008年~教授 日本民俗建築学会理事、日本建築学会会員、道具学会会員。 HP http://www.tamabi.ac.jp/kankyou/kishimoto/
参加費:無料 定員:20名(要メール申込・先着順) ※大盛況のなか終了しました。
2017年1月28日(土)に開催されたトークイベントの様子です。ゲストに、岸本 章氏(多摩美術大学環境デザイン学科教授)をお招きし「岸本Labo 海外のリノベーション事例〜2階展示監修の岸本章氏による特別講座」を開講しました。
国内外の古い建築を訪ね歩き、開設15周年を迎えた「環境デザインマニアック 」にて消えゆく東京、都心の町屋など独自の観点で都市景観を捉え、発信されている岸本章教授。多摩美術大学環境デザイン学科、3年生の学生さんによる仮想リノベーションプランを12案を監修いただいたご縁で、MUSEEでの特別講座を開講いただきました。現存する建築のリノベーションを課題にしてこられた経緯からお話いただきました。最近は、消えていく建物も多く、実際に建て替えを予定している所有者オーナーからは理解が得られず、毎年ひと苦労あるそう。学生さんに、建築・インテリア・ランドスケープ複合的に考えてもらい、街づくりの場合は、地元の方に発表する機会を設けてこられました。
建築の保存再生について、5つの区分について、わかりやすく解説いただきました。
①保存 文化財として学術的な調査とともに。
②リノベーション(改修、更新、改新) 同じ機能のまま、増築などで使い勝手を良くする。
③コンバージョン(再生、転用) 外観が持つ価値、景観を重視しつつ、中身を違う機能に転換させる。
④リフォーム(再利用) 外観の価値ではなく、構造を再利用するなど経済性の観点から行われる。
⑤再建 オリジナルの手法でいかに復元するか。RCで再現した大阪城などは、学問的には疑問が残るが、シンボルとしての意味合いが強い。
今回は、②③について、岸本教授自らが現地で撮影した写真による事例を多数紹介。その注目すべき点を解説いただきました。
②リノベーション
キングスクロス駅(ロンドン)、セントパンクラス駅(ロンドン)、アトーチャ駅(マドリード)、進化博物館(パリ)、BBC(ロンドン)、ストラスブール駅(ストラスブール)、大英博物館グレートコート(ロンドン)
大胆にもガラス張りの構造躯体で覆ったストラスブール駅や、隣地に最新の駅舎を新設し、旧建物は大胆にも植物園になったアトーチャ駅など、大規模かつ公共性の高い駅舎を中心にご紹介いただきました。
③コンバージョン
テートモダン(ロンドン)、北京798芸術区(北京)、ヘドマルク博物館(ノルウェー)、バスティーユ高架(パリ)、ノルトライン・ヴェストファーレン デザインセンター(エッセン)、ブラッケンハウス(ロンドン)、21世紀美術館(ローマ)、オスロ芸術大学(オスロ)、ガソメーター(ウィーン)、ドゥースブルグ環境公園(ドゥースブルグ)、セント・マーティンスインザフィールズ(ロンドン)
発電所時代の煙突を残し、都市景観を守りつつ、セントポール大聖堂との間にミレニアムブリッジを架け、人々の眼差しをガラリと変えたテートモダン。環境を破壊した負の産業遺産をそのまま朽ちるかのように残し、真逆の価値である環境を押し出したドゥースブルグ環境公園。など、日本では考えられないような、目を見張るものを多数ご紹介いただきました。
最後に、この数年で銀座から失われた建物写真を背景に、「二度と戻ってこない建物、見ていて悲しくなりますよね」と次々と建築が解体されることに危機感を抱いていることについて触れられました。
「長持ち」する建築は、工学技術的アプローチで日本が得意とする分野。それと切り口を変え「長生き」する建築をいかに考えるか。それは、建築への愛情の問題で、長生きさせようとする気運の醸成が必要とのこと。この分野は研究されることが少なく、美大が取り組むべきだと考えているそう。そのため、建築的価値、文化財としての価値だけでなく、町並みを永年形成し、「人々の記憶」「ランドマーク」としての価値を、拾い上げていくプロセスを模索していくことが重要とのこと。
「“レガシーを創る”と世の中で叫ばれているが、そのレガシーを壊すことから始まるところに違和感がある。経済性との兼ね合いはあるが、記憶を残すことが、企業姿勢の前向きな表現につながり、しいては経済へ循環する世の中になってくれれば」と締めくくられました。
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2017年2月4日(土)18:30~ 「100周年。建築保存と不動産開発の現場から」
講演:川崎力宏(川崎ブランドデザイン有限会社 代表取締役・銀座レトロギャラリーMUSEE 代表)
×対話 高上旭氏(高上旭デザイン事務 所 代 表 )
大手ハウスメーカー勤務を経て、家業である九州の建設会社を継ぐ既定路線から一転、独立。川崎ブランドデザイン4代目。2013年、銀座に残る近代建築を取得。藤本壮介氏設計の高層ビル新築を計画するも、解体直前にレトロな魅力に取り憑かれ保存を決意。装いも新たにギャラリー開廊。以来50本を超える展覧会を開催。2015年法政大学 経営大学院I.M.専攻 修士課程(MBA)修了。中小企業診断士として、銀座ギャラリーの新しい未来を切り拓くべく活動している。また国際不動産投資家として、世界各国将来の都市景観に投資を行っている。創業100周年を記念して制作された映像と共に、その制作を担当した高上旭氏と対話形式で、歴史に裏打ちされたリアルな建築保存、不動産開発について講演します。
参加費:無料 定員:20名(要メール申込・先着順) ※大盛況のなか終了しました。
2017年2月11日(土)18:30〜 「中銀カプセルタワービル〜名建築を保存する7つの方法〜」
ゲスト:前田達之氏(中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト代表)
2010年に1つめのカプセルを取得し、2011年より中銀カプセルタワービル管理組合法人で監事を務める。ビルの保存・再生を求めて、管理組合、管理会社、オーナーと交渉を続け、2014年には中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクトを立ち上げる。翌年、クラウドファンディングを成功させ、ビジュアルファンブック「中銀カプセルタワービル 銀座の白い箱舟」を出版。およそ20カプセルのリノベーションを手掛ける他、国内外のメディア対応や「カプセルバンク」「アートプロジェクト」等に取り組む。 HP http://www.nakagincapsuletower.com/
参加費:無料 定員:20名(要メール申込・先着順)※大盛況のなか終了しました。
「銀座、次の100年のためのスタディ展」。2017年2月11日(土)に開催されたトークイベントの様子です。ゲストに、前田達之さん(中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト代表) をお招きし、「中銀カプセルタワービル〜名建築を保存する7つの方法〜」 と題し講演いただきました。
銀座のランドマーク、黒川紀章設計の「中銀カプセルタワービル」。60年代、丹下健三の影響を受けた、黒川紀章、菊竹清訓、槇文彦といった建築家を中心に展開された「メタボリズム」。建築を新陳代謝させるという前衛的な設計思想を体現した異色の名建築です。
前田さんは、2010年に1つめのカプセルを取得されて以降、ビルを愛し、今では複数カプセルを所有。ビルの保存・再生を求め、住人らと2014年中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクトを立ち上げました。クラウドファンディングを成功させ、ビジュアルファンブック「中銀カプセルタワービル 銀座の白い箱舟」を出版し、およそ20カプセルのリノベーションを手掛けるほか、国内外のメディア対応や「カプセルバンク」「アートプロジェクト」等に取り組まれています。( HP http://www.nakagincapsuletower.com/ )
名建築を保存する7つの方法として、「1知る、2広める、3繕う、4企てる、5組む、6つながる、7活用する」という項目ごとに、これまでの活動の様子を写した写真とともに分かりやすくご説明いただきました。黒川紀章がメディアで注目を集めたように、前田さんの保存運動も、テレビや新聞、ネット、雑誌や書籍、写真などメディアへの露出、コラボレーションなどが核になっています。今では、日本を代表する現代の風景として紹介され、キアヌ・リーブスなど著名人が前田さんを訪ね、ビル見学に訪れるほど国際的に注目されています。
築45年を迎え、カプセルという特殊な構造につき、給排水や老朽化が進む現在。丁寧にリノベーションをサポートされた成果が実を結び、新たな住人が増え、個性的なカプセルが次々と誕生しています。映画上映会、アートイベントの企画など、住人同士のコミュニティ形成に一役買い、現在進行形で新たな文化を発信されています。いつか「世界遺産に登録されるように頑張りたい」という明るいメッセージで締めくくられました。注目度高く、30名近いお客様にご参加いただき、質疑応答も盛んに行われた講演会。前田さん率いる中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト、これからの展開が見逃せません。
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2017年2月18日(土)18:30〜 クロージングセッション 「総括 MUSEE(ミュゼ)の可能性を引き出す」
建築家:菊池甫氏 山本展久氏(本展示アーキディレクション担当)
2ヶ月間の展示終了を期に、本展覧会のアーキディレクションを担当した両名が、総括として感じたことをセッションします。 【菊池甫】oohk-菊池甫一級建築士事務所 【山本展久】山本展久アトリエ荒川企画室 共に1982年生まれ、大分大学大学院修了後、設計事務所勤務等を経て、現職。 東京の下町に拠点を構え、所縁のある東京・大阪・九州の3地域を中心として活動を展開中。東京都美術館主催『Arts & Life:生きるための家』展(藤本壮介賞)、『吉備線LRT駅デザインコンペティション』(佳作)など国内コンペの入選・入賞多数。本展においては一年がかりで準備を重ね、建築という立場から銀座とそこに建つMUSEEについて改めて考察。これからの100年をどう歩むべきかを検討しながら、鑑賞者に自由な発想と閃きを促すコンテンツ構築に挑んだ。
参加費:無料 定員:20名(要メール申込・先着順)
銀座レトロ絵葉書 〜品格ある銀座の「流儀と挟持」。その誕生を紐解く〜
本展1階で展示するのは、大正〜昭和初期に印刷され、銀座を訪れた人々が手にしたレトロな絵葉書。その数37点。大火を幾度も経験し、その都度、復興し商人が立ち上がり、粋な銀座、銀座らしさを形成してきました。銀座和光や資生堂と文化価値を発信する企業も銀座を拠点にしています。その激動の歴史を37枚を通じて走馬灯のようにご覧いただきます。「銀座を訪れる Memory」と題し、現代に息づく品格ある銀座の「流儀と挟持」、その誕生を紐解きます。
銀座は、記憶される。現在であればアイフォーン片手にフェイスブック。
しかし、過去に銀座を訪れた人々は、銀座を未だ見ぬ人々に向けて絵葉書を送った。
場所を伝えるツールだった絵葉書は、長い年月を経て、時を伝えるツールへと変わっていく。
敗戦後の混乱の中、それでもハレの日を求めて銀座に集まる人々・・・
銀座の記憶は、人々の要望の記憶。「銀座の役割は終わった」という人がいる。銀座は何時、その役割を終えたのだろう。
現在、人々は銀座に要望を持たないのだろうか?未来、人々は銀座に何を求めるのだろうか。
明治。大火〜世界一の煉瓦街の誕生。1872年(明治5年)2月、和田倉門付近から出火し、銀座、築地一帯を焼く大火が起きた。東京府は西洋流の不燃都市の建設を目指し、道路を広げ、煉瓦家屋で再建する布告が出された。地券を発行したが、土地評価の問題で買収は順調には進行しなかった。府知事由利公正が岩倉使節団に加わるため、大蔵省建設局(中心は井上馨)を中心に、官営(大蔵省建設局が直営施工で建築)で、設計をお雇い外国人ウォートルスが担当。1873年(明治6年)洋風2階建の街並みが出来上がった。ロンドンのリージェント・ストリートがモデルになったという。煉瓦街と言っても外壁は漆喰などで仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではなく、1階が煉瓦造、2階が木造というものもあった。絵葉書は、日本初と言われる街路樹は写っているが、馬車鉄道の軌道が写っていない。その後、民間払い下げが進まず、建設資金回収が不可能となり、第1次工事から除外された地域では煉瓦街は建築されず、道路と堀割等の工事に限定されることに。住民の反対も起き、木挽町より東の工事は放棄された。最終的に1877年(明治10年)煉瓦街計画は完了となった。【1】1878年(明治11年)頃 ※複製絵葉書
明治煉瓦街、初代「時計塔」。銀座のシンボル、和光の時計塔は実は2代目。文明開化の音が鳴り響き始めた1872年(明治5年)2月、火事が発生し銀座一帯が焼け野原となった。後に「銀座大火」と呼ばれ、焼死8人、負傷者60人、焼失戸数は4874戸といい、これを機に明治新政府は銀座を耐火構造の西洋風の煉瓦街へ改造することとなった。帝都の象徴として再出発である。1894年(明治27年)輸入時計・宝飾品等を扱う服部時計店の創業者・服部金太郎が、その銀座四丁目交差点角地の朝野新聞社の建物を買い取り、初代の時計塔として増改築した。この煉瓦街から、現在の老舗と呼ばれる名店が銀座に店舗を構えた。あんぱん「木村屋總本店」、菓子「風月堂」、洋装品「ギンザのサヱグサ」、海軍病院薬局長を辞した福原有信による調剤薬局からスタートした「資生堂」。書画文具「鳩居堂」、天ぷら「銀座天國」、洋食「煉瓦亭」が誕生したのである。新橋駅による開港地横浜との直結し舶来品が集まりやすく、新聞社が集中し流行発信する土地柄、江戸以来の職人街に住む職人の細やかな技術、これらが融合し銀座の礎となった。【2】1894年(明治27年)頃
「今日は帝劇、明日は三越」帝国劇場は、1911年(明治44年)に竣工した日本初の西洋式演劇劇場。横河民輔の設計によるルネサンス建築様式の劇場だった。イタリア人音楽家ローシーを招いてオペラ・バレエを上演したほか、六代目尾上梅幸・七代目松本幸四郎らが専属俳優となり歌舞伎やシェイクスピア劇などを上演。「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句は流行語にもなり、消費時代の幕開けを象徴する言葉として定着した。1923年(大正12年)関東大震災では、隣接する警視庁から出た火災で外郭を残して焼け落ちたが、横河民輔により改修され、翌年再開した。1930年(昭和5年)松竹の経営となり松竹洋画系の基幹劇場となった。1939年(昭和14年)東宝の手に渡り翌年、元の演劇主体の興行形態に戻す。しかし1955年(昭和30年)舞台に巨大映画スクリーンが設置され、再び洋画ロードショー用の映画館に転じた。1964年(昭和39年)『アラビアのロレンス』上演を最後に解体された。【3】1911年(明治44年)・(大東京)丸の内帝国劇場
文化人が集うカフェー全盛。1873年(明治6年)、世界一の煉瓦街が銀座に出現。現在の5丁目「メルサ」の場所にあったドームが美しい煉瓦建築。「芝浦モートルス」という袖看板が見える。よく公候伯子男爵の馬車が横付けされ、「田屋」というゴルフ洋品店が入ったという。関東大震災の翌1924年(大正13年)にはカフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復し「カフェー・タイガー」が開業した。美人女給がいることで評判となり、永井荷風、菊池寛、中村武羅夫、三上於菟吉らの作家がタイガーをひいきにした。広津和郎の小説『女給』で話題になった菊池寛のカフェー通いはこの店が舞台であった。銀座はカフェー全盛時代。1915年(大正4年)冬には、天皇即位を祝したイルミネーションが外観に灯された。【4】1915年(大正4年)頃・銀座通り(東京)
資生堂×辰野金吾。文化演出、画廊の開花。大正時代の銀座通り。官主導、ウォートスによるジョージアン様式の赤煉瓦街の均質な街並みに、塔や時計が取り付けられる変化が起きた。高い文化意識を備えた銀座人が台頭し、現代に通じる気品と格式ある都市空間が創造された。単に銀座で商品を売ることにとどまらず、文化人として建てる建築にこだわりを見せた。その代表格が、調剤薬局からスタートした資生堂である。初代社長であり写真家でだった福原信三は、1916年(大正5年)に、東京駅を設計し明治の建築界に君臨した近代建築の父、辰野金吾と交流を持ち、煉瓦造3階建の化粧品部ビルを完成させる。絵葉書の中央に描かれている丸窓のある建築で、1925年(大正14年)パリ万博で発表される以前に、アール・デコを予感させる装飾を持ち込んだ。3年後には資生堂ギャラリーを開設し、芸術家を発掘紹介する文化事業もスタートさせる。その後、日動画廊をはじめ多くの画廊が街中に開廊し、芸術鑑賞、文化演出の場として銀座を開花させたのである。【5】1921年(大正10年)頃・(帝都名所)京橋銀座通り
辰野金吾が手掛けた日本初のテナントビル。今はなき、京橋のシンボル第一生命本館(第一相互館)。日本最初のテナントビル。第一生命保険は、1902年(明治35年)に日本初の相互会社として設立された。中央通りと鍛冶橋通りの交差点の南側の土地は、当時南伝馬町3丁目の地名で商家が立ち並ぶ一角であった。創業者の矢野恒太は、日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾に相談を持ちかけた。鉄骨煉瓦造7階建で、5・6階に第一生命の事務所が入り、2~4階は貸事務所、1階は貸店舗とされた。自社は上層階に入り手狭になったら順次下の階に事務所を広げる狙いがあった。第一次世界大戦による建築材料不足のため工期は大幅に遅れた。国内で鉄骨を賄うことができず英国ドルマン・ロング社に発注したが、鉄骨を積んだ八阪丸がドイツの潜水艦の攻撃を受け地中海に沈むトラブルもあった。完成を見ることなく辰野金吾がスペイン風邪で急逝。関東大震災で倒壊せず戦中戦後、京橋の景観を作ってきた。惜しまれつつも1969年(昭和44年)解体。2011年(平成23年)完成した3代目、相互館110タワーでも塔の意匠は継承されている。【6】1921年(大正10年)・第一生命保險相互會社
建築デザインの開花。関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進したは、建築家・構造学者の佐野利器。内務大臣後藤新平が帝都復興院を置いて総裁に就き、その依頼で佐野も帝都復興院理事・建築局長に就任。芸術としての建築より、工学としての建築、特に耐震工学に重きを置き「構造派」と呼ばれていた。単純な箱を提唱していたのでなく、デザインも重視していた。都市不燃化の一環として100を超える、当時まだ珍しい鉄筋コンクリート造の復興小学校建築に当たった。震災前から建築に新しい意匠を模索する動きがあったが、復興を機に多様となった。復興にあたり官民の建築は、機能重視のインターナショナルスタイル(白木屋デパート)、バウハウスの影響が見られる表現派、帝国ホテルを設計したライトの様式、従来からの装飾が多い様式的折衷的な建築、和風屋根をかけた帝冠様式(歌舞伎座)など様々なデザインで一斉に建築され、東京にモダニズムの空間が生み出されていった。【7】1921年(大正10年)頃・(東京名所)日本橋
○○銀座を生んだ、銀座のレンガ。関東大震災の難事へ対応したのは内務大臣の後藤新平。ナポレオン3世によるパリ改造計画を参考に、道路を放射状に延ばす壮大な復興計画を立てる。資金不足で断念するも「遷都をしない」ことにこわだり、東京を災害に強い街にするべく様々な工夫を凝らした。道路の建設、区画整理や新しい橋の建設、公園の新設や小学校の耐震及び耐火工事により避難所を確保など、現在もその多くが受け継がれている。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年(明治5年)区画整理時の町並みが残された。なお戸越の商店街が、排水処理に困っていた為、銀座から撤去されたレンガを貰い受け利用した由来から戸越銀座と名乗るようになり、全国初の「○○銀座」となった。その後全国各地で「○○銀座」と名付けられた商店街が形成されるようになった。【8】1923年(大正23年)・東京大震災絵葉書(京橋)焦土と化した銀座通
壊滅的に倒壊した銀座。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、東京市3,830ha、横浜市950haが焼失するなど関東一円に壊滅的被害が生じた。内閣不在の最中9月2日夜、余震と火炎が空を覆う状況下で、赤坂離宮の芝生で親任式が行われ、第二次山本内閣が発足、後藤新平は内務大臣に就任した。後藤新平は、震災火災が続いているその夜から想を練り、「帝都復興根本策」を記した。内容は「一、遷都すべからず、二、復興費に30億円を要すべし、三、欧米最新の都市計画を採用して我が国に相応しき新都をつくる、四、新都市計画実施のために地主に対して断固とした態度をとる」というものであった。この30億円は後藤の直感であったという。【9】1923年(大正12年)・大正12.9.1東京大震災実況銀座ヨリ京橋
デパート百貨繚乱。1924年(大正13年)関東大震災の翌年に銀座復興の先陣を切ってオープンした松坂屋。土足入場の断行(1925年)をはじめ、お好み食堂の創設(1930年)、女性社員の完全洋装化(1933年)など、次々に新機軸を打ち出しデパートの歴史において重要な存在だった。「今宵逢ひましょ銀座の街で 名さへあなたを松坂屋 昇降機(リフト)上れば、星かげ、灯かげ 空のサロンの朗かさ」西条八十が1935年(昭和10年)に詠んだ「星の食堂の唄」の一節が有名。映画「ゴジラ」(1954年の第1作)に於いて、屋上動物園の巨大な鳥小屋越しにゴジラが現れ、鳥たちが騒ぐカットや白熱光で炎上させるシーンが登場した。1952年(昭和27年)には、新館が長谷部鋭吉の設計で完成。1964年(昭和39年)に旧館をアントニン・レーモンド設計で改築。チェコ出身の建築家、アントニン・レーモンド(1888~1976)は、日本近代建築の父と呼ばれる。1919年(大正8年)帝国ホテル設計のためライトとともに来日。大戦中を除き40年以上日本に滞在し、今も残る教文館ビルや旧日本楽器ビル山葉ホールも手がけ、銀座の景観を作った。【10】1924年(大正13年)・銀座通松坂屋 竣工記念
新商法で競い合った百貨店。1872年(明治5年)横浜と新橋をつなぐ日本初の鉄道ができたことで、銀座には、舶来品を扱う商人が、時計商、西洋家具店、洋服店、洋食屋、パン屋などを出店。新進気鋭の商人は、江戸時代からの座売ではなく、ショーウィンドウを設けた。高級商店、専門店な立ち並び、「銀ぶら」という街歩きができる街となる。1924年(大正13年)松坂屋を皮切りに、松屋、三越が進出し東京随一の商業地に。百貨店は、慣例だった下足預かりの廃止し、バス送迎、くじ景品、ヒョウやライオン動物園など、新商法で話題をさらう。この絵葉書は、松屋に現存する中央ホール吹き抜け空間を描いたもの。7フロアを貫き天井高25m。1956年(昭和31年)には、東洋一の空中エスカレーター『スカイリボン』が完成し人気を博す。半世紀以上続く名物催事『百傘会』は、数百本の傘が花開く眺めは壮観。娯楽文化を生む松屋を、永井荷風は『断腸亭日乗』の中で「松屋百貨店店飾りの活人形を観るものの如し」と記し、百貨店は大衆化する。【11】1924年(大正13年)・東京銀座 松屋呉服店
屋形船が行きかう情緒ある築地川と三吉橋。震災復興事業の一環として、1929年(昭和4年)築地川に三叉の三吉橋が完成した。現在の中央区役所前の交差点にあたる。築地川が折れ曲がる地点から上方の楓川とを結ぶ連絡運河が開削されY字形となった。そこに架かる15メートル幅の三叉橋は、東京新名所の一つとなった。大正、昭和初期の頃は、荷舟や屋形船が行きかう情緒ある場所だったが、戦後、東京オリンピックに伴う高速道路建設のため築地川は埋め立てられることになる。現在でも、当時のフォルムそのままに三吉橋の綺麗な三叉の橋を見ることができる【12】1929年(昭和4年)・(復興の新東京)京橋区築地三吉橋
【13】バラック装飾から始まった復興建築。関東大震災からの復興建築 。焼け野原に出現したのは、仮設のバラックであった。仮店舗には「バラック装飾」と呼ばれる若い建築家達のアート運動が見られた。今和次郎が結成した「バラック装飾社」が有名で、住宅や商店などのバラックのファサードにペンキで絵を描くなどの活動を展開した。代表作である銀座のカフェ・キリンでは、怪獣のように口を開けたキリンを激しいタッチで描き、神田の東条書店には「野蛮人の装飾をダダイズムで」として、動物と渦巻き紋様を描いた。その後、復興が進みバラックの建設が減り活動も自然消滅した。彼らに対して、分離派建築会、芸術至上主義的な立場から厳しい批判に対し、今和次郎は世相風俗の表層的な部分にこそ宿る美の存在を主張した。現在『日本の近代建築(下)』岩波新書(1993)の中で、建築家 藤森照信氏は「モダンデザイン終了後のポストモダンの傾向の一つにほかならない」とその先進性を評価している。1930年(昭和5年)【13】(昭和五年三月 帝都復興式典祭記念)銀座通り櫻花の奉祝光景
帝都復興祭。関東大震災後、政府は帝都復興院を設け首都の再建に取り組む。復興事業の大部分が終え、1930年(昭和5年)3月24日より1週間にかけ「帝都復興祭」が盛大に開催された。初日は天皇陛下の市内巡幸でスタート。宮城を出発後は神田、浅草を経由し、隅田川の言問橋から蔵前橋など復興された橋梁を渡る32キロ程という、異例の長巡行に、各沿道は百万人もの人々で埋め尽くされた。復興資金は、第一次大戦で日本軍の活躍を見ていたアメリカ、イギリス、中華民国からは溥儀から膨大な支援金が贈られた。こうした内外の協力の末、無事復興が終わったため、昭和天皇ご臨席の式典、ダンスパーティーや演奏会、映画上映など文化的なもの、スポーツ大会も行われ、帝都復活を国内外に示すこととなった。【14】1930年(昭和5年)・(帝都復興式典祭記念市内の光景)銀座通り市民の雑踏
「東洋唯一の地下鉄道」誕生。1927年(昭和2年)に開通した、日本初の地下鉄、銀座線。開通したのは上野駅~浅草駅間のたった2.2㎞の距離だった。1930年(昭和5年)に万世橋駅まで開通し、1932年(昭和7年)三越前駅や京橋駅まで伸び、1934年(昭和9年)になり新橋まで開通。この頃の同じ区間の市電の運賃は7銭に対して、地下鉄は10銭均一という割高にもかかわらず、物珍しさもあって人々が押し寄せた。車両編成は1両のみでスタートし「東洋唯一の地下鐡道」がキャッチコピーだった。乗客は、コートやオーバーなど洋服を着た人もいたが、実際は着物姿が多かった。車両は東京地下鉄1000形1001号車両と言われ、当時木造車両が主流だった中で、台車、屋根板や内張りが鉄で作られた、全鋼鉄製の車両だった。ATS自動列車停止装置という、緊急時に自動で止まる装置を採用した画期的なものだった。このころ、阪急電鉄を創設した小林一三により、日比谷に映画・劇場街が開発され、当時繁華街の頂点だった浅草の客が、銀座にも流れてくるように。地下鉄の開通は、都内の人の流れを銀座に向けたのである。【15】1932年(昭和7年)・(大東京)地下鐵道
水路。職人街だった銀座一丁目。雑誌『主婦之友』に附録として発行された72枚のうちの1枚。以下解説文より「がつしりとした鐵筋コンクリート、清洒(せうしゃ)な白タイル、七色のネオンライトに彩られたモダン東京も、その裏に廻ってみれば、この有様です。額にばかりゴテゴテ白粉を塗つて、襟筋の垢をそのままにしてゐる、下手なお化粧に似てはゐませんか。ここは銀座一丁目の町つづき、大根河岸附近から眺めた情景です。」現在の首都高速東銀座出口から警察博物館にかけての一帯。まだ堀があった大根河岸。手前に舟があり堀が見える。銀座ばかりでなく東京の街全体が、水辺の街、舟運の街だった時代。戦後に焼け野原となった銀座は、商人の努力で復興する一方、空襲による瓦礫の山が、昭和通りを中心に続いていた。瓦礫処理を急ぐようGHQからの命令で、三十間堀への残土投棄されることに。1948年(昭和23年)6月から埋立が始まり、1949年(昭和24年)7月には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅した。【16】1932年(昭和7年)・東京の反面
復興の象徴、昭和通り。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、新しく建設された道路である。明治初期に銀座で実現した煉瓦街計画以来の、不燃化による近代的な都市作りを、下町全域で実現させようと東京府知事だった後藤新平が描いた構想を元に進められた。原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅45メートルに狭められ1928年(昭和3年)に完成した。欧米に匹敵する都市景観を作り出そうと、中央の分離帯には植栽が施され、江戸時代からの日本橋魚河岸の真ん中を突っ切った。魚河岸は、1935年(昭和10年)築地に移転が完了した。【17】1932年(昭和7年)・(大東京)街区整然たる昭和通の美観
「銀ブラ」の紳士淑女。雑誌『主婦之友』に附録として発行された72枚のうちの1枚。以下解説文より「銀座四丁目の三越屋上から新橋方面を望んだ、銀座大通りの一部です。東京一の繁華を以て鳴るところで、夜になれば、謂ゆる「銀ブラ」の紳士淑女達が、食後の散歩に殺到して来ます。日本の先端的な風俗の發信地です。最近、この大通りに、街路樹として柳が植ゑられました。謂ゆる「銀座の柳」の情緒が、街頭に漂つてゐます。」 銀ブラは、大正時代からの俗語で、銀座の街をぶらぶら歩くこと。カフェー・プランタンを経営した松山省三よる、銀座をぶらぶらするブラつきを指す隠語が、ぶらぶらする行為を指す新語、流行語に転じたとするものや、カフェーパウリスタでブラジルコーヒーを飲むことであるとする説など諸説ある。【18】1932年(昭和7年)・銀座大通り
新聞、報道の街。雑誌『主婦之友』に附録として発行された72枚のうちの1枚。以下解説文より「銀座通りといふのは、北は京橋の袂から、南は新橋驛附近までの総称で、そのその中心をなすのが、銀座四丁目、即ち尾張町の交叉點であります。右手の白い建物は、新装成つた服部時計店で、左手に見えるのが、東京朝日新聞社です。」。明治時代、煉瓦街の建設に伴い、東京日日新聞、東京朝日新聞、読売新聞や國民新聞など新聞社のほとんどが銀座に集中し、印刷業や広告代理店なども集中した時期があった。しかし関東大震災により壊滅的打撃を受けると、読売が大手町へ移転するなど銀座への集中も途絶えることとなった。また、日本電報通信社(電通)が銀座に設立され、広告原稿の受け渡しの利便性から地方新聞社の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。そのため現在でも支局や支社を構えるところが存在する。【19】1932年(昭和7年)・銀座尾張町
堺の銀細工職人が植えた柳。江戸時代、江戸前島という砂州を埋め立て町人地として整備が行われた。1612年(慶長17年)に駿府にあった銀座役所が移転し、1800年(寛政12年)蛎殻町に再び移転するまで、銀貨の鋳造が行われた。「銀座」の由来である。その象徴である「柳」は、室町以降、貨幣制度を生んだ商工都市、堺から移住した銀細工職人が、故郷を懐かしんで移植したのが起源とされる。1874年(明治7年)日本初の街路樹として、最初は桜・松・楓が銀座通りに植樹された。3年後、埋立地だったため根腐れを起こし、湿地に生育する柳に植え替えられた。1921年(大正10年)には車道の拡幅にともない銀杏へと植え替えられたものの、銀座の柳に対する思いは強く、1929年(昭和4年)に発表された西條八十作詞『東京行進曲』でも銀座の柳をなつかしむ歌詞が登場する。1932年(昭和7年)朝日新聞社の寄贈で銀座通りに柳が復活し、柳まつりが開催された。その後『東京ラプソディ』『東京音頭』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。戦後、銀座の柳は1968年(昭和43年)撤去され、歩道が拡張された【20】1935年(昭和10年)頃・(東京名勝)情緒をそそる銀座の柳
【21】大恐慌の最中も、モガ・モボが濶歩。関東大震災後、1927年(昭和2年)3月に始まった昭和金融恐慌により弱体化していた日本経済。世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた。
その一方で銀座では、大阪資本による巨大カフェーが出店し、派手なネオンが連なった。アール・デコの影響を受けたモガは、ショート・カットの断髪のイートンクロップに引き眉毛、斬新な柄の着物や最先端の洋装ファッションに身を包み舞台女優のように気取って歩き、モボは、ちょびひげ、オールバックにボルサリーノ、セイラーズボンにロイド眼鏡、腕にはステッキといういでたちで濶歩した。1935年(昭和10年)頃【21】
フォーマルに決め小粋に遊ぶ、銀座の流儀。関東大震災の復興が進むなか、昭和初期の銀座はモダンライフを謳歌する人々が集まった。その最先端を行くのがモガ(モダンガール)とモボ(モダンボーイ)のファッション。女性は洋服、髪型も日本髪から洋髪が主流となり、男性も青いスーツに派手なネクタイにあこがれ、映画館や喫茶店での休日を楽しんだ。コーヒー一杯10銭、映画の入場料金40銭、パーマネント代が20円、銀行大卒主任給70円の時代。キネマを観て、ダンスホールで遊び、西洋のスポーツも楽しんだ。 カフェーでは、世界各国の酒が揃いアイスクリームもケーキもあった。 意匠を凝らした気品ある店舗、美しさが街路にも溢れる。昭和初期に生まれた、銀座を憧れの街とし「フォーマルに決めて小粋に遊ぶ」という流儀が継承され、古きを守りつつも新たな流行を生み出す風土は平成になった現代も息づいている。【22】1935年(昭和10年)頃
二・二六事件の舞台にもなったモダニズム建築の傑作。今はなき有楽町の日劇と朝日新聞本社。朝日新聞は、1888年(明治21年)大阪にあった朝日新聞社が自由燈、燈新聞の流れを汲む新聞を買収し、東京朝日新聞と名前を変え創刊したのがルーツである。当時の社屋は、現在の銀座6丁目(旧・京橋区瀧山町)にあった。1907年(明治40年)夏目漱石が小説記者として、1909年(明治42年)石川啄木が校正係として入社したという驚きの社歴を持つ。1927年(昭和2年)有楽町の新社屋に移転。モダニズム建築の代表作として建築史上知られる白木屋デパートを手掛けた石本喜久治が設計を担当。本社事務機能、印刷工場、読者が来訪できる展示場、大講堂などを備えた多機能ビルだった。5角形の敷地形状に対する配置、階層の動線処理など平面計画に特徴がある。外観は隅角部に丸みを持たせ、事務所窓を端正な矩形、大講堂窓を半楕円形とし、バルコニーを壁面から張り出しアクセントとした。真横を江戸城外掘が流れていた。竣工した年、二・二六事件の舞台となり反乱部隊の襲撃を受ける。1940年(昭和15年)「朝日新聞」に改題。1980年(昭和55年)築地に移転し、跡地が有楽町マリオンとしてなり今に至る。【23】1937年(昭和12年)頃・銀座より数寄屋橋を望む
【24】最先端の広告、アドバルーン。日本初のアドバルーン広告は、1913年(大正2年)、化粧品会社の中山太陽堂が使用した気球自体に絵や文字を書いた「広告気球」が始まりとされているが、1929年(昭和4年)二代目市川左団次の自由劇場が始まりであると言う説もある。1937年(昭和12年)頃から、朝の銀座上空に20以上のアドバルーンが浮かんでみられるように。しかし太平洋戦争が始まると掲揚は禁止される。戦後初となるアドバルーンは、昭和23年(1948年)に有楽町の日劇屋上から揚げられるも、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で「風船爆弾のイメージが残存する」という理由で、たった1日で中断。その後、昭和26年(1951年)規制が緩和され復活し、セール宣伝はもとより消防出初式や博物館の開館などのイベント告知や慶事の定番となる。東京で揚げられたアドバルーンの数は、1956年(昭和31年)には約10000本、1964年(昭和39年)松屋の新装開店時には一度に553本ものアドバルーンが揚げられたという。1937年(昭和12年)頃【24】
戦争介入で軍隊が行進した銀座。日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年(昭和15年)に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1941年(昭和16年)洋風の店名が禁止され、現在も残る文壇バー「ルパン」(菊池寛、里見弴、泉鏡花、永井荷風、川端康成、久米正雄、林芙美子、太宰治が通った)は、「麺包亭」と名乗って営業したという。 1944年(昭和19年)戦局が苛烈を極め、劇場・料理店・待合芸妓屋・バーが閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動も街頭で行われた。街灯や都電のレールが取り外され軍事物資に提供され、食糧不足から畑を耕す人も現れた。【25】1940年(昭和15年)頃・(大東京)帝都随一の商店街 銀座通
三十間堀、水路の街。左の銀座中央通りと右の昭和通り、その間の三十間堀川に架かる三原橋が晴海通りである。昭和通りには樹木が植えられている。三十間堀は、1612年(慶長17年)に開削完成した当時、三十間(54m)あったことにちなみ、1828年(文政11年)手狭になった両岸の河岸地が広げられ十九間(34m)に狭められた。戦後の瓦礫処理で1949年(昭和24年)埋立られ消滅した。手前から今はなき木挽橋・三原橋・朝日橋・豊玉橋がかかっている。時期は10〜20年後にはなるが、小林旭・浅丘ルリ子主演で1960年(昭和35年)公開された日活映画「東京の暴れん坊」では、空撮映像を鮮明なカラーで堪能できる。【26】1940年(昭和15年)頃・(新大東京名所)機上ヨリ見タル銀座大街
街を往く人たちが、車窓の景色だった都電。1882年(明治15年)馬車鉄道が新橋〜日本橋間で開業、1903年東京電車鉄道と名を変え電化し、数寄屋橋〜神田橋間に東京市街鉄道が開業した。後に東京市電として公営化し、路線・系統の拡大がされた。絵葉書に描かれているのは昭和10年頃に登場したダーク・グリーンの車体。真鍮の金具を光らせていた。アール・ヌーボーの意匠が施された街路灯、 商店のショーウインドウにも電気のイルミネーションが使われ話題を集めた。1934年(昭和9年)、東京地下鉄道によって敷設された地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が銀座まで延伸し、1950年代より整備が急速に進み、西銀座駅の丸ノ内線が開業。その一方で自動車の増加に伴い、惜しまれつつも都電は昭和42年に廃止された。【27】1940年(昭和15年)頃・(大東京)銀座通り
銀座の象徴、和光。格調と華麗さを体現。銀座のシンボル、和光の時計塔は1932年(昭和7年)竣工。緩やかな弧を描くネオ・ルネッサンス様式。塔の高さは9m、その上に8mの尖塔と避雷針が付属する。四方にある時計文字盤は東西南北を向いており、直径は2.4m。建物の外装材は、関東大震災直後、設計段階で予定されていたテラコッタからより強靭な天然御影石へと変更され当時最高の技術が注ぎ込まれた。時計文字盤や窓部分は、ブロンズでアラベスク(唐草)の繊細な透かし模様の装飾などが施され、店内壁面は伊から輸入された大理石を使用。設計は、後に東京国立博物館本館、旧第一生命館を手がける渡辺仁。日本建築にモダニズムの波が押し寄せた昭和初期に、この建物が重厚華麗なネオ・ルネッサンス様式の姿を身に纏った理由は、当時の服部時計店図案部長、八木豊次郎の強いこだわりに由来する。伝統的な様式を踏襲しながらも新時代の感覚を反映させ、商号である「H」を刻んだレリーフなどディティールに配した。モボ、モガが闊歩する昭和の銀座と石造りのクラシカルな建物が見事に共存する景観が立ち現われた。【28】1940年(昭和15年)頃・(大東京)帝都随一の商店街銀座大通り
享楽から戦争の時代へ。日中戦争(支那事変)の長期化、物資統制による国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうと、1940年(昭和15年)「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。神武天皇の即位から2600年目を祝い、「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められた。内閣主催の行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達し、奉祝曲も作曲された。しかし参加者への接待も簡素化され、終了後に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた。さあ働かう!」の標語の如く、再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活は厳しさを増していくことになる。銀座では、贅沢は敵だ、パーマネントはやめましょうと呼びかけられ、1944年(昭和19年)街灯や都電のレールが取り外されて軍事物資に提供され、歌舞伎座も休場を命じられ、華やかなネオンも消えた。昭和通りは芋畑に変わった。1945年(昭和20年)1月、泰明小学校にも撃弾が落とされ、その後、度重なる空襲を受け全域が焼き尽くされた。【29】1940年(昭和15年)・東京 紀元2600年式典 銀座街
終戦。占領下の銀座。太平洋戦争での敗戦後、アメリカ進駐軍はGHQ(連合軍総司令部)を置き、都内600箇所の建物を接収し、戦車で都内を行軍して回った。銀座では服部時計店、次いで松屋、伊東屋がPXとして接収され、戦前とは違う街並みとなった。PXとは“Post Exchange”の略で、米軍基地内の売店を指し、日本人客は立ち入れない、アメリカ軍人と家族のための店舗である。接収は7年間続き、1952年(昭和27年)9月に返還式が行われ、半年以上をかけて建物内外の新装、社員教育など準備を整え、翌年5月新生松屋としてオープン。新たな歴史を歩み始めることに。かたや、接収されていた1947年(昭和22年)服部時計店の小売部門の業務を継承し、株式会社和光が設立され、銀座5丁目の仮営業所が設けられた。接収解除後、現在の和光本館にて事業を開始。これを記念し、ショーウインドウを当時の気鋭のデザイナーが競作し、以後現在に至るまで、和光のショーウインドウは、「銀座の顔」として定着した。【30】1946年(昭和21年)・Tokyo P.X. at Ginza Street
ネオン広告塔が夜の銀座を照らす。銀座の夜を華やかに彩った高層ネオンは、1953年(昭和28年)晴海通りに面した不二越ビル(現在のアルマーニ銀座タワー)屋上に登場した森永ミルクキャラメルの広告塔。通称「サボテン」と呼ばれた地球儀。「ヒトデ型」のナショナル(現・パナソニック)は、当時3階建だった鳩居堂ビル屋上に、建物の2倍以上という巨大な大きさが話題に。銀座の名物になり、絵葉書や映画にも登場した。1963年(昭和38年)三愛ドリームセンターが完成すると目立たなくなって姿を消し、鳩居堂ビルも三愛と同じ高さのビルに改築された。雪印ネオンサインは、三愛ドリームセンタービルができる場所にあり、雪の結晶をまばゆく演出した。【31】1955年(昭和30年)頃
国内諸街道の元標。日本橋は、中央区日本橋一丁目と室町一丁目との間にある日本橋川に架かるコンクリート造りの橋である。1603年(慶長8年)江戸幕府が開かれたとき日本橋、京橋一帯の新市街ができ、日本橋はそのとき初めて架けられたもので、翌年には日本橋を起点として諸街道の里程を定め、一里毎に一里塚が置かれた。1873年(明治6年)に「東京は日本橋。京都は三条の中央を以て国内諸街道の元標とす」と定められ、今も橋の中央に道路元標の鉄塔が建っている。現在の橋は1911年(明治44年)架け替えられたものである。1964年(昭和39年)東京オリンピックの前年、日本橋川を塞ぐように首都高速道路が建設され本来の景色を失ってしまった。戦災復興による道路整備が計画どおりに進まず、五輪へ向けて都心部の交通混雑を回避するため川や沿岸部などの空間を利用しての整備だった。その後、日本の高度経済成長を支える重要インフラとして活躍したが、すでに50年が経過して更新時期を迎え、景観を取り戻す署名運動も行われ、地下化が検討されている。【32】1955年(昭和30年)頃・(東京名所)日本橋
ソニービル。流行発信するショールーム。1957年(昭和32年)、数寄屋橋に東京通信工業株式会社(後のソニー)がネオン広告塔を設置。トランジスタラジオ発売2年後の当時、初めて豆球を使用したネオン広告看板が話題になった。1959年(昭和34年)ショールームオープン。約20坪足らずのフロアに製品を並べた。「この銀座・数寄屋橋の一角を永久に確保し、多くの面での効果を永続的に得たいと考え、ここにソニービルを建設することになったのであります」と宣言し、1966年(昭和43年)ソニービルがオープン。芦原義信設計、グッゲンハイム美術館を参考に世界初『花びら構造』のユニークな建築様式を採用。正確さと装飾を廃した機能美、ビル自体がソニー製品であるかのように表現された。外壁に埋め込まれた2300個のブラウン管テレビ、パネルヒーティング、日本最高速エレベーターなど、新しい構想で話題をさらい1日平均2万人を超える盛況だった。その後、松下電器=テクニクス銀座ショールーム、日立製作所=Lo-Dプラザ、東京芝浦電気=東芝銀座セブン、日本ビクター=ニッパーズギンザが続き、日産自動車も銀座ギャラリーを開設した。【33】1960年(昭和35年)・銀座ネオン夜景
商人の気質、銀座らしさを継承。高度経済成長期の銀座。60年代、70年代の高度経済成長期になると、関西など全国から、銀座にやってきて商売をする人々が増えた。銀座の商売人が自ら店頭に立って丁寧に接客するのとは異なり、大阪の商売人は品揃えや安く提供することに専念し、販売は若い店員に任せ、店主は仕入れに徹する。昔から銀座で商売をしている旦那衆にしてみれば、銀座らしさが失われると心配した。結局、地方から銀座にやってきた人々が、銀座のスタイルに自ら同化(銀座ナイズ)していくことになる。「今までのやり方では商売にならない。売るためには銀座の流儀を守らなくては」と考えた。今でも銀座には関西出身の商店主が多く、銀座らしさが継承されているのである。【34】1962年(昭和37年)頃・(東京名所)銀座通り
帝都の象徴、東京駅。東京停車場(東京駅)は、日清戦争や日露戦争の停滞を経て、明治41年着工した。近代建築の父と呼ばれる辰野金吾が設計を手がけ、赤煉瓦と白い花崗岩を組み合わせた様式は「辰野式」と呼ばれる。1914年(大正3年)開業。コンクリートを多用したレンガ造のため、関東大震災では大きな損傷もなかったという。しかし1945年(昭和20年)の空襲で、耐火に優れた鉄骨煉瓦造の外観は残ったものの、ドーム屋根や内装はが焼失。戦災復旧工事で3階建駅舎が2階建にされ、焼失した壮麗なドームは八角形の寄棟となった。絵葉書の左に写るのは、今はなき旧国鉄本社ビル新館。1963年(昭和38年)竣工。新館は地上9階・地下3階で運輸省・国鉄本社の中枢が入った。ルネッサンス様式の優美な旧館は大戦中、空襲対策として1トン爆弾に耐える耐弾層を設置し、窓に木製の爆風避を設置し、外壁を迷彩塗装する工事が行われたという。【35】1963年(昭和38年)頃・東京名所東京駅
日本初の高速道路。モータリゼーションの時代。1964年(昭和39年)東京オリンピック開催に向け、戦後の東京大改造の一環として、新橋から京橋までの旧江戸城外堀が埋め立てられ、その上に東京高速道路が建設された。日本で唯一の民間による、店舗ビルの屋上を道路が走る高速道路ビル。1962年(昭和37年)開通した首都高速よりも歴史が古く、部分開通は1959年(昭和34年)に遡り、1966年(昭和41年)全線開通。夜は銀座のまばゆいばかりの光が見えて美しいが、中央分離帯がない対面走行となり注意が必要な道路である。一般自動車道と異なり区間内のみであれば無料で通行可能。これは東京都が建設を許可する際に、公共河川を利用することから無料化を条件としたためである。高架下地下1階から地上2階に「有楽フードセンター」が誕生。当時としては、駅ビルもない時代。食に関する総合デパートといえる規模で注目された。都庁移転問題を契機に1989年(平成元年)名称を「銀座インズ」し全面リニューアルされた。【36】1963年(昭和38年)
高度経済成長期に始まった歩行者天国。1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催され、1969年(昭和44年)GNP世界第2位となるなど、高度経済成長の時代に。1965年(昭和38年)完成した三愛ドリームセンタービル。リコー創業者市村清が戦後間もない1946年(昭和21年)旧六十九銀行跡地に2階建のビルを建設し、以後この地から経営拡大。法隆寺五重塔をヒントに「建物中心に大きな柱を立ててビル全体を総ガラス化させた円筒型のビル」を考案、名称も一般公募で決定した。外壁には社章である眼鏡のマークが配してあった。三菱電機スカイリングのネオンも長年親しまれた。その他にも、銀座最大を誇った東芝ビル、銀座ライオンビル、名鉄メルサ、資生堂ザ・ギンザなど、新しいビルが次々と建てられた。中央通りでは、1970年(昭和45年)歩行者天国が実施されるようになり休日の定番となる。【37】1965年(昭和38年)頃・三愛ビルネオン
【38】高度経済成長期に始まった歩行者天国。1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催され、1969年(昭和44年)GNP世界第2位となるなど、高度経済成長の時代に。1965年(昭和38年)完成した三愛ドリームセンタービル。リコー創業者市村清が戦後間もない1946年(昭和21年)旧六十九銀行跡地に2階建のビルを建設し、以後この地から経営拡大。法隆寺五重塔をヒントに「建物中心に大きな柱を立ててビル全体を総ガラス化させた円筒型のビル」を考案、名称も一般公募で決定した。外壁には社章である眼鏡のマークが配してあった。三菱電機スカイリングのネオンも長年親しまれた。その他にも、銀座最大を誇った東芝ビル、銀座ライオンビル、名鉄メルサ、資生堂ザ・ギンザなど、新しいビルが次々と建てられた。中央通りでは、1970年(昭和45年)歩行者天国が実施されるようになり休日の定番となる。【38】1970年頃・三愛ビルネオン、銀座和光と柳
銀座レトロギャラリーMUSEE(ミュゼ)の企画展「MUSEE exhibitions」。独自の経験・背景から信念を持ち意欲的に創作する気鋭作家を紹介、さらに俯瞰して、建築や都市計画までも視野に展開するシリーズです。現代の世相を反映しつつ、未来志向の実験的・イノベーティブなプロセスを通じ、独自の価値観の提示に挑みます。空間構成から体験をアートとするインスタレーション、プロジェクションマッピングなどの新しい手法、そして戦前から残る近代建築との対照性にご注目ください。
MUSEE exhibitions is a comprehensive design exhibition by Ginza Retro Gallery MUSEE. This series serves to introduce bold artists producing works with ambition and conviction rooted in experiences and environments both in Japan and abroad. MUSEE exhibitions focuses on installations that use spatial organization to turn personal experiences into art. Through experimental processes that reflect modern times while looking toward the future, MUSEE exhibitions strives to present a unique worldview. Please take care to note as well the contrast with the modern architecture that lingers from pre-war days.