資生堂×辰野金吾。文化演出、画廊の開花。大正時代の銀座通り。官主導、ウォートスによるジョージアン様式の赤煉瓦街の均質な街並みに、塔や時計が取り付けられる変化が起きた。高い文化意識を備えた銀座人が台頭し、現代に通じる気品と格式ある都市空間が創造された。単に銀座で商品を売ることにとどまらず、文化人として建てる建築にこだわりを見せた。その代表格が、調剤薬局からスタートした資生堂である。初代社長であり写真家でだった福原信三は、1916年(大正5年)に、東京駅を設計し明治の建築界に君臨した近代建築の父、辰野金吾と交流を持ち、煉瓦造3階建の化粧品部ビルを完成させる。絵葉書の中央に描かれている丸窓のある建築で、1925年(大正14年)パリ万博で発表される以前に、アール・デコを予感させる装飾を持ち込んだ。3年後には資生堂ギャラリーを開設し、芸術家を発掘紹介する文化事業もスタートさせる。その後、日動画廊をはじめ多くの画廊が街中に開廊し、芸術鑑賞、文化演出の場として銀座を開花させたのである。【5】1921年(大正10年)頃・(帝都名所)京橋銀座通り
