Architecture 建築空間の紹介
それは、90年の歴史を刻む建築と
新しい未来を導くアートが『共創』する特別な空間。
時を刻むことで深みが出る人生のように、建築も味わいが醸成され、魅力を増していきます。
MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesignBldg.は、
東京大空襲を生き延び、90年の永きに亘り東京の歴史を見守ってきました。
現在では高層ビルに挟まれながらも凛とした印象で佇む、銀座昭和通り沿い唯一の近代建築です。
当時流行した加飾タイル外壁や杉天井など日本建築のクラフトマンシップが散りばめられた
時を超え、語り継ぐべき素晴らしい建築でもあります。
高層タワー新築による取り壊し計画から一転、レトロな魅力に惹かれ、保存を決断。
奇跡的に美しいギャラリーとして現代に蘇りました。
銀座は、常に新しいものを受容し、流行を発信し続ける街です。
MUSEE GINZAは、近代建築の魅力を最大限引き出すため、新しい価値観を発信します。
「時間軸・都市空間・現代世相」をテーマにした展覧会を企画・開催。
創る者、観る者、そして関わるすべての人々の知性を刺激し、思考力を掻き立てます。
記憶に刻み込まれる MUSEE(美術館)を志し、未来に向けて共創していきます。
MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesign: Home to the only European-style building on Tokyo Ginza’s Showa-street, a structure erected 91 years ago. Today, the building is reborn as an art gallery. Plans for a new skyscraper were scrapped after local residents voiced affection for the building, which is now being kept as a piece of history. White walls act in concert with a traditional Japanese cedarwood roof in this three-story space, which can open an exhibition of artist’s talents. We invite you to explore this building’s historic roots while helping us create the next generation of art.
建築・ビル外観 MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesignBldg.×加飾 スクラッチタイル(オリジナル)
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メインギャラリーX レンタルスペース・レトロホワイトキューブ
2018年9月、装い 新たにフルリニューアルした、MUSEE GINZA メインギャラリー空間。レトロ×ホワイトキューブをテーマに、1932年竣工当時から存在するコンクリートをダイヤモンド研磨。90年前のコンクリートが美しくロマンスグレーの光沢を放って甦りました。
緊張感ある白壁と高演色の特殊照明、可動式壁を備え、現代アートが美しく展示できるホワイトキューブ空間となりました。また、さまざまな展示会イベントにも対応。銀座で最も古く、しかし最先端の流行を発信するエッジの効いた空間。記憶に残る展覧会・展示会・イベントでご活用ください。
空間レンタルの概要、スケジュール、価格はこちら 。
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ギャラリーY MUSEEコレクション 山口 歴/(mini space)ネオダダ 風倉 匠
昭和通りを斜めから見下ろすことができる空間、ギャラリーY。この日本建築美の杉天井に呼応する、現代的なMUSEEコレクションを常時公開する空間です。
ここでは、NYを拠点に活躍するアーティスト 山口 歴(meguru yamaguchi)の代表的なシリーズ「OUT OF BOUNDS」11作品、「SPLITTING HORIZON」2作品を展示。光沢鮮やかに勢いある合計13作品が観るものを圧倒します。全く新しいHORIZON(領域、経験)を産み出そうと今この瞬間も果敢に挑戦する若手アーティスト山口歴。その成果は、ISSEY MIYAKE、Audi、NIKE、UNIQLOとのコラボレーションで世界展開されます。今後の活躍、一瞬たりとも目が離せません。 www.meguruyamaguchi.com
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ギャラリーZ【Rf 屋上】展望・実験インスタレーション空間
銀座・昭和通りをダイナミックに臨む空間。容積率緩和により現在では60 メートル近い高層ビルが立ち並ぶ都内屈指の幹線道路、昭和通り。関東大 震災後の都市計画で誕生した当初は、2〜3階建ての商店が立ち並び、道路 の中心には公園が整備されていたそう。その頃から変わらない立姿である 3階建のMUSEE。そこからのパノラマテックな眺望を、先人たちは想定し ていたのでしょうか。
2018年秋、MUSEEブルーの特殊防水塗装を施しリ ニューアル。大都会東京・銀座の空、夜景を想いのままに取り込むことが できます。若手美術家のインスタレーション、パフォーマンスイベントな ど実験的な展示に対応した特別な空間です。
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通路・階段 「銀座歴史資料 Ginza Historical District 」
銀座の都市空間を時間を超えて俯瞰する、MUSEEだけの新スポット誕生。銀座の歴史は、日本近現代史、首都東京の都市開発の歴史。レトロ絵葉書とともに、一気にプレイバックしましょう。
歴史に裏付けされた銀座の都市空間
銀座のシンボル、和光の時計塔は、MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesignBldg.と同じ1932(昭和7)年竣工。緩やかな弧を描くネオ・ルネッサンス様式。設計は後に東京国立博物館本館を手がける渡辺仁。日本建築にモダニズムの波が押し寄せた昭和初期に、重厚華麗なネオ・ルネッサンス様式の姿を纏った理由は服部時計店図案部長、八木豊次郎の強いこだわりに由来する。伝統的な様式を踏襲しながらも新時代の感覚を反映させ、商号の「H」を刻んだレリーフなどディティールに配した。モボ、モガが闊歩する昭和の銀座と石造りのクラシカルな建物が見事に共存する景観が立ち現われた。
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【1】大火〜世界一の煉瓦街の誕生。
明治。大火〜世界一の煉瓦街の誕生。1872年(明治5年)2月、和田倉門付近から出火し、銀座、築地一帯を焼く大火が起きた。東京府は西洋流の不燃都市の建設を目指し、道路を広げ、煉瓦家屋で再建する布告が出された。地券を発行したが、土地評価の問題で買収は順調には進行しなかった。府知事由利公正が岩倉使節団に加わるため、大蔵省建設局(中心は井上馨)を中心に、官営(大蔵省建設局が直営施工で建築)で、設計をお雇い外国人ウォートルスが担当。1873年(明治6年)洋風2階建の街並みが出来上がった。ロンドンのリージェント・ストリートがモデルになったという。煉瓦街と言っても外壁は漆喰などで仕上げられたものが大部分で、赤煉瓦の街並みだった訳ではなく、1階が煉瓦造、2階が木造というものもあった。絵葉書は、日本初と言われる街路樹は写っているが、馬車鉄道の軌道が写っていない。その後、民間払い下げが進まず、建設資金回収が不可能となり、第1次工事から除外された地域では煉瓦街は建築されず、道路と堀割等の工事に限定されることに。住民の反対も起き、木挽町より東の工事は放棄された。最終的に1877年(明治10年)煉瓦街計画は完了となった。【1】1878年(明治11年)頃 ※複製絵葉書
【2】明治煉瓦街、初代「時計塔」。
明治煉瓦街、初代「時計塔」。銀座のシンボル、和光の時計塔は実は2代目。文明開化の音が鳴り響き始めた1872年(明治5年)2月、火事が発生し銀座一帯が焼け野原となった。後に「銀座大火」と呼ばれ、焼死8人、負傷者60人、焼失戸数は4874戸といい、これを機に明治新政府は銀座を耐火構造の西洋風の煉瓦街へ改造することとなった。帝都の象徴として再出発である。1894年(明治27年)輸入時計・宝飾品等を扱う服部時計店の創業者・服部金太郎が、その銀座四丁目交差点角地の朝野新聞社の建物を買い取り、初代の時計塔として増改築した。この煉瓦街から、現在の老舗と呼ばれる名店が銀座に店舗を構えた。あんぱん「木村屋總本店」、菓子「風月堂」、洋装品「ギンザのサヱグサ」、海軍病院薬局長を辞した福原有信による調剤薬局からスタートした「資生堂」。書画文具「鳩居堂」、天ぷら「銀座天國」、洋食「煉瓦亭」が誕生したのである。新橋駅による開港地横浜との直結し舶来品が集まりやすく、新聞社が集中し流行発信する土地柄、江戸以来の職人街に住む職人の細やかな技術、これらが融合し銀座の礎となった。【2】1894年(明治27年)頃
【3】「今日は帝劇、明日は三越」/(大東京)丸の内帝国劇場
「今日は帝劇、明日は三越」帝国劇場は、1911年(明治44年)に竣工した日本初の西洋式演劇劇場。横河民輔の設計によるルネサンス建築様式の劇場だった。イタリア人音楽家ローシーを招いてオペラ・バレエを上演したほか、六代目尾上梅幸・七代目松本幸四郎らが専属俳優となり歌舞伎やシェイクスピア劇などを上演。「今日は帝劇、明日は三越」という宣伝文句は流行語にもなり、消費時代の幕開けを象徴する言葉として定着した。1923年(大正12年)関東大震災では、隣接する警視庁から出た火災で外郭を残して焼け落ちたが、横河民輔により改修され、翌年再開した。1930年(昭和5年)松竹の経営となり松竹洋画系の基幹劇場となった。1939年(昭和14年)東宝の手に渡り翌年、元の演劇主体の興行形態に戻す。しかし1955年(昭和30年)舞台に巨大映画スクリーンが設置され、再び洋画ロードショー用の映画館に転じた。1964年(昭和39年)『アラビアのロレンス』上演を最後に解体された。【3】1911年(明治44年)・(大東京)丸の内帝国劇場
【4】文化人が集うカフェー全盛。/銀座通り(東京)
文化人が集うカフェー全盛。1873年(明治6年)、世界一の煉瓦街が銀座に出現。現在の5丁目「メルサ」の場所にあったドームが美しい煉瓦建築。「芝浦モートルス」という袖看板が見える。よく公候伯子男爵の馬車が横付けされ、「田屋」というゴルフ洋品店が入ったという。関東大震災の翌1924年(大正13年)にはカフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復し「カフェー・タイガー」が開業した。美人女給がいることで評判となり、永井荷風、菊池寛、中村武羅夫、三上於菟吉らの作家がタイガーをひいきにした。広津和郎の小説『女給』で話題になった菊池寛のカフェー通いはこの店が舞台であった。銀座はカフェー全盛時代。1915年(大正4年)冬には、天皇即位を祝したイルミネーションが外観に灯された。【4】1915年(大正4年)頃・銀座通り(東京)
【5】資生堂×辰野金吾。文化演出、画廊の開花。/(帝都名所)京橋銀座通り
資生堂×辰野金吾。文化演出、画廊の開花。大正時代の銀座通り。官主導、ウォートスによるジョージアン様式の赤煉瓦街の均質な街並みに、塔や時計が取り付けられる変化が起きた。高い文化意識を備えた銀座人が台頭し、現代に通じる気品と格式ある都市空間が創造された。単に銀座で商品を売ることにとどまらず、文化人として建てる建築にこだわりを見せた。その代表格が、調剤薬局からスタートした資生堂である。初代社長であり写真家でだった福原信三は、1916年(大正5年)に、東京駅を設計し明治の建築界に君臨した近代建築の父、辰野金吾と交流を持ち、煉瓦造3階建の化粧品部ビルを完成させる。絵葉書の中央に描かれている丸窓のある建築で、1925年(大正14年)パリ万博で発表される以前に、アール・デコを予感させる装飾を持ち込んだ。3年後には資生堂ギャラリーを開設し、芸術家を発掘紹介する文化事業もスタートさせる。その後、日動画廊をはじめ多くの画廊が街中に開廊し、芸術鑑賞、文化演出の場として銀座を開花させたのである。【5】1921年(大正10年)頃・(帝都名所)京橋銀座通り
【10】デパート百貨繚乱。/銀座通松坂屋竣工記念
デパート百貨繚乱。1924年(大正13年)関東大震災の翌年に銀座復興の先陣を切ってオープンした松坂屋。土足入場の断行(1925年)をはじめ、お好み食堂の創設(1930年)、女性社員の完全洋装化(1933年)など、次々に新機軸を打ち出しデパートの歴史において重要な存在だった。「今宵逢ひましょ銀座の街で 名さへあなたを松坂屋 昇降機(リフト)上れば、星かげ、灯かげ 空のサロンの朗かさ」西条八十が1935年(昭和10年)に詠んだ「星の食堂の唄」の一節が有名。映画「ゴジラ」(1954年の第1作)に於いて、屋上動物園の巨大な鳥小屋越しにゴジラが現れ、鳥たちが騒ぐカットや白熱光で炎上させるシーンが登場した。1952年(昭和27年)には、新館が長谷部鋭吉の設計で完成。1964年(昭和39年)に旧館をアントニン・レーモンド設計で改築。チェコ出身の建築家、アントニン・レーモンド(1888~1976)は、日本近代建築の父と呼ばれる。1919年(大正8年)帝国ホテル設計のためライトとともに来日。大戦中を除き40年以上日本に滞在し、今も残る教文館ビルや旧日本楽器ビル山葉ホールも手がけ、銀座の景観を作った。【10】1924年(大正13年)・銀座通松坂屋 竣工記念
【6】辰野金吾が手掛けた日本初のテナントビル。/第一生命保險相互會社
辰野金吾が手掛けた日本初のテナントビル。今はなき、京橋のシンボル第一生命本館(第一相互館)。日本最初のテナントビル。第一生命保険は、1902年(明治35年)に日本初の相互会社として設立された。中央通りと鍛冶橋通りの交差点の南側の土地は、当時南伝馬町3丁目の地名で商家が立ち並ぶ一角であった。創業者の矢野恒太は、日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾に相談を持ちかけた。鉄骨煉瓦造7階建で、5・6階に第一生命の事務所が入り、2~4階は貸事務所、1階は貸店舗とされた。自社は上層階に入り手狭になったら順次下の階に事務所を広げる狙いがあった。第一次世界大戦による建築材料不足のため工期は大幅に遅れた。国内で鉄骨を賄うことができず英国ドルマン・ロング社に発注したが、鉄骨を積んだ八阪丸がドイツの潜水艦の攻撃を受け地中海に沈むトラブルもあった。完成を見ることなく辰野金吾がスペイン風邪で急逝。関東大震災で倒壊せず戦中戦後、京橋の景観を作ってきた。惜しまれつつも1969年(昭和44年)解体。2011年(平成23年)完成した3代目、相互館110タワーでも塔の意匠は継承されている。【6】1921年(大正10年)・第一生命保險相互會社
【7】建築デザインの開花/(東京名所)日本橋
建築デザインの開花。関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進したは、建築家・構造学者の佐野利器。内務大臣後藤新平が帝都復興院を置いて総裁に就き、その依頼で佐野も帝都復興院理事・建築局長に就任。芸術としての建築より、工学としての建築、特に耐震工学に重きを置き「構造派」と呼ばれていた。単純な箱を提唱していたのでなく、デザインも重視していた。都市不燃化の一環として100を超える、当時まだ珍しい鉄筋コンクリート造の復興小学校建築に当たった。震災前から建築に新しい意匠を模索する動きがあったが、復興を機に多様となった。復興にあたり官民の建築は、機能重視のインターナショナルスタイル(白木屋デパート)、バウハウスの影響が見られる表現派、帝国ホテルを設計したライトの様式、従来からの装飾が多い様式的折衷的な建築、和風屋根をかけた帝冠様式(歌舞伎座)など様々なデザインで一斉に建築され、東京にモダニズムの空間が生み出されていった。【7】1921年(大正10年)頃・(東京名所)日本橋
【9】壊滅的に倒壊した銀座。/大正12.9.1東京大震災実況銀座ヨリ京橋
壊滅的に倒壊した銀座。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、東京市3,830ha、横浜市950haが焼失するなど関東一円に壊滅的被害が生じた。内閣不在の最中9月2日夜、余震と火炎が空を覆う状況下で、赤坂離宮の芝生で親任式が行われ、第二次山本内閣が発足、後藤新平は内務大臣に就任した。後藤新平は、震災火災が続いているその夜から想を練り、「帝都復興根本策」を記した。内容は「一、遷都すべからず、二、復興費に30億円を要すべし、三、欧米最新の都市計画を採用して我が国に相応しき新都をつくる、四、新都市計画実施のために地主に対して断固とした態度をとる」というものであった。この30億円は後藤の直感であったという。【9】1923年(大正12年)・大正12.9.1東京大震災実況銀座ヨリ京橋
【8】○○銀座を生んだ、銀座のレンガ/東京大震災絵葉書(京橋)焦土と化した銀座通
○○銀座を生んだ、銀座のレンガ。関東大震災の難事へ対応したのは内務大臣の後藤新平。ナポレオン3世によるパリ改造計画を参考に、道路を放射状に延ばす壮大な復興計画を立てる。資金不足で断念するも「遷都をしない」ことにこわだり、東京を災害に強い街にするべく様々な工夫を凝らした。道路の建設、区画整理や新しい橋の建設、公園の新設や小学校の耐震及び耐火工事により避難所を確保など、現在もその多くが受け継がれている。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年(明治5年)区画整理時の町並みが残された。なお戸越の商店街が、排水処理に困っていた為、銀座から撤去されたレンガを貰い受け利用した由来から戸越銀座と名乗るようになり、全国初の「○○銀座」となった。その後全国各地で「○○銀座」と名付けられた商店街が形成されるようになった。【8】1923年(大正23年)・東京大震災絵葉書(京橋)焦土と化した銀座通
【19】新聞、報道の街。/銀座尾張町
新聞、報道の街。雑誌『主婦之友』に附録として発行された72枚のうちの1枚。以下解説文より「銀座通りといふのは、北は京橋の袂から、南は新橋驛附近までの総称で、そのその中心をなすのが、銀座四丁目、即ち尾張町の交叉點であります。右手の白い建物は、新装成つた服部時計店で、左手に見えるのが、東京朝日新聞社です。」。明治時代、煉瓦街の建設に伴い、東京日日新聞、東京朝日新聞、読売新聞や國民新聞など新聞社のほとんどが銀座に集中し、印刷業や広告代理店なども集中した時期があった。しかし関東大震災により壊滅的打撃を受けると、読売が大手町へ移転するなど銀座への集中も途絶えることとなった。また、日本電報通信社(電通)が銀座に設立され、広告原稿の受け渡しの利便性から地方新聞社の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。そのため現在でも支局や支社を構えるところが存在する。【19】1932年(昭和7年)・銀座尾張町
【16】水路。職人街だった銀座一丁目。/東京の反面
水路。職人街だった銀座一丁目。雑誌『主婦之友』に附録として発行された72枚のうちの1枚。以下解説文より「がつしりとした鐵筋コンクリート、清洒(せうしゃ)な白タイル、七色のネオンライトに彩られたモダン東京も、その裏に廻ってみれば、この有様です。額にばかりゴテゴテ白粉を塗つて、襟筋の垢をそのままにしてゐる、下手なお化粧に似てはゐませんか。ここは銀座一丁目の町つづき、大根河岸附近から眺めた情景です。」現在の首都高速東銀座出口から警察博物館にかけての一帯。まだ堀があった大根河岸。手前に舟があり堀が見える。銀座ばかりでなく東京の街全体が、水辺の街、舟運の街だった時代。戦後に焼け野原となった銀座は、商人の努力で復興する一方、空襲による瓦礫の山が、昭和通りを中心に続いていた。瓦礫処理を急ぐようGHQからの命令で、三十間堀への残土投棄されることに。1948年(昭和23年)6月から埋立が始まり、1949年(昭和24年)7月には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅した。【16】1932年(昭和7年)・東京の反面
【18】「銀ブラ」の紳士淑女。/銀座大通り
「銀ブラ」の紳士淑女。雑誌『主婦之友』に附録として発行された72枚のうちの1枚。以下解説文より「銀座四丁目の三越屋上から新橋方面を望んだ、銀座大通りの一部です。東京一の繁華を以て鳴るところで、夜になれば、謂ゆる「銀ブラ」の紳士淑女達が、食後の散歩に殺到して来ます。日本の先端的な風俗の發信地です。最近、この大通りに、街路樹として柳が植ゑられました。謂ゆる「銀座の柳」の情緒が、街頭に漂つてゐます。」 銀ブラは、大正時代からの俗語で、銀座の街をぶらぶら歩くこと。カフェー・プランタンを経営した松山省三よる、銀座をぶらぶらするブラつきを指す隠語が、ぶらぶらする行為を指す新語、流行語に転じたとするものや、カフェーパウリスタでブラジルコーヒーを飲むことであるとする説など諸説ある。【18】1932年(昭和7年)・銀座大通り
【15】「東洋唯一の地下鉄道」誕生。/(大東京)地下鐵道
「東洋唯一の地下鉄道」誕生。1927年(昭和2年)に開通した、日本初の地下鉄、銀座線。開通したのは上野駅~浅草駅間のたった2.2㎞の距離だった。1930年(昭和5年)に万世橋駅まで開通し、1932年(昭和7年)三越前駅や京橋駅まで伸び、1934年(昭和9年)になり新橋まで開通。この頃の同じ区間の市電の運賃は7銭に対して、地下鉄は10銭均一という割高にもかかわらず、物珍しさもあって人々が押し寄せた。車両編成は1両のみでスタートし「東洋唯一の地下鐡道」がキャッチコピーだった。乗客は、コートやオーバーなど洋服を着た人もいたが、実際は着物姿が多かった。車両は東京地下鉄1000形1001号車両と言われ、当時木造車両が主流だった中で、台車、屋根板や内張りが鉄で作られた、全鋼鉄製の車両だった。ATS自動列車停止装置という、緊急時に自動で止まる装置を採用した画期的なものだった。このころ、阪急電鉄を創設した小林一三により、日比谷に映画・劇場街が開発され、当時繁華街の頂点だった浅草の客が、銀座にも流れてくるように。地下鉄の開通は、都内の人の流れを銀座に向けたのである。【15】1932年(昭和7年)・(大東京)地下鐵道
【11】新商法で競い合った百貨店。/東京銀座 松屋呉服店
新商法で競い合った百貨店。1872年(明治5年)横浜と新橋をつなぐ日本初の鉄道ができたことで、銀座には、舶来品を扱う商人が、時計商、西洋家具店、洋服店、洋食屋、パン屋などを出店。新進気鋭の商人は、江戸時代からの座売ではなく、ショーウィンドウを設けた。高級商店、専門店な立ち並び、「銀ぶら」という街歩きができる街となる。1924年(大正13年)松坂屋を皮切りに、松屋、三越が進出し東京随一の商業地に。百貨店は、慣例だった下足預かりの廃止し、バス送迎、くじ景品、ヒョウやライオン動物園など、新商法で話題をさらう。この絵葉書は、松屋に現存する中央ホール吹き抜け空間を描いたもの。7フロアを貫き天井高25m。1956年(昭和31年)には、東洋一の空中エスカレーター『スカイリボン』が完成し人気を博す。半世紀以上続く名物催事『百傘会』は、数百本の傘が花開く眺めは壮観。娯楽文化を生む松屋を、永井荷風は『断腸亭日乗』の中で「松屋百貨店店飾りの活人形を観るものの如し」と記し、百貨店は大衆化する。【11】1924年(大正13年)・東京銀座 松屋呉服店
【17】復興の象徴、昭和通り。/(大東京)街区整然たる昭和通の美観
復興の象徴、昭和通り。昭和通りは関東大震災の復興事業として計画、新しく建設された道路である。明治初期に銀座で実現した煉瓦街計画以来の、不燃化による近代的な都市作りを、下町全域で実現させようと東京府知事だった後藤新平が描いた構想を元に進められた。原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅45メートルに狭められ1928年(昭和3年)に完成した。欧米に匹敵する都市景観を作り出そうと、中央の分離帯には植栽が施され、江戸時代からの日本橋魚河岸の真ん中を突っ切った。魚河岸は、1935年(昭和10年)築地に移転が完了した。【17】1932年(昭和7年)・(大東京)街区整然たる昭和通の美観
【14】帝都復興祭。/(帝都復興式典祭記念市内の光景)銀座通り市民の雑踏
帝都復興祭。関東大震災後、政府は帝都復興院を設け首都の再建に取り組む。復興事業の大部分が終え、1930年(昭和5年)3月24日より1週間にかけ「帝都復興祭」が盛大に開催された。初日は天皇陛下の市内巡幸でスタート。宮城を出発後は神田、浅草を経由し、隅田川の言問橋から蔵前橋など復興された橋梁を渡る32キロ程という、異例の長巡行に、各沿道は百万人もの人々で埋め尽くされた。復興資金は、第一次大戦で日本軍の活躍を見ていたアメリカ、イギリス、中華民国からは溥儀から膨大な支援金が贈られた。こうした内外の協力の末、無事復興が終わったため、昭和天皇ご臨席の式典、ダンスパーティーや演奏会、映画上映など文化的なもの、スポーツ大会も行われ、帝都復活を国内外に示すこととなった。【14】1930年(昭和5年)・(帝都復興式典祭記念市内の光景)銀座通り市民の雑踏
【22】フォーマルに決め小粋に遊ぶ、銀座の流儀。
フォーマルに決め小粋に遊ぶ、銀座の流儀。関東大震災の復興が進むなか、昭和初期の銀座はモダンライフを謳歌する人々が集まった。その最先端を行くのがモガ(モダンガール)とモボ(モダンボーイ)のファッション。女性は洋服、髪型も日本髪から洋髪が主流となり、男性も青いスーツに派手なネクタイにあこがれ、映画館や喫茶店での休日を楽しんだ。コーヒー一杯10銭、映画の入場料金40銭、パーマネント代が20円、銀行大卒主任給70円の時代。キネマを観て、ダンスホールで遊び、西洋のスポーツも楽しんだ。 カフェーでは、世界各国の酒が揃いアイスクリームもケーキもあった。 意匠を凝らした気品ある店舗、美しさが街路にも溢れる。昭和初期に生まれた、銀座を憧れの街とし「フォーマルに決めて小粋に遊ぶ」という流儀が継承され、古きを守りつつも新たな流行を生み出す風土は平成になった現代も息づいている。【22】1935年(昭和10年)頃
【20】堺の銀細工職人が植えた柳。/(東京名勝)情緒をそそる銀座の柳
堺の銀細工職人が植えた柳。江戸時代、江戸前島という砂州を埋め立て町人地として整備が行われた。1612年(慶長17年)に駿府にあった銀座役所が移転し、1800年(寛政12年)蛎殻町に再び移転するまで、銀貨の鋳造が行われた。「銀座」の由来である。その象徴である「柳」は、室町以降、貨幣制度を生んだ商工都市、堺から移住した銀細工職人が、故郷を懐かしんで移植したのが起源とされる。1874年(明治7年)日本初の街路樹として、最初は桜・松・楓が銀座通りに植樹された。3年後、埋立地だったため根腐れを起こし、湿地に生育する柳に植え替えられた。1921年(大正10年)には車道の拡幅にともない銀杏へと植え替えられたものの、銀座の柳に対する思いは強く、1929年(昭和4年)に発表された西條八十作詞『東京行進曲』でも銀座の柳をなつかしむ歌詞が登場する。1932年(昭和7年)朝日新聞社の寄贈で銀座通りに柳が復活し、柳まつりが開催された。その後『東京ラプソディ』『東京音頭』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。戦後、銀座の柳は1968年(昭和43年)撤去され、歩道が拡張された【20】1935年(昭和10年)頃・(東京名勝)情緒をそそる銀座の柳
【25】戦争介入で軍隊が行進した銀座。/(昭和五年三月 帝都復興式典祭記念)銀座通り櫻花の奉祝光景
戦争介入で軍隊が行進した銀座。日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年(昭和15年)に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1941年(昭和16年)洋風の店名が禁止され、現在も残る文壇バー「ルパン」(菊池寛、里見弴、泉鏡花、久米正雄、永井荷風、川端康成、林芙美子、太宰治が通った)は、「麺包亭」と名乗って営業したという。 1944年(昭和19年)には戦局も苛烈を極め、劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。街灯や都電のレールが取り外され軍事物資に提供され、食糧不足から畑を耕す人も現れた。【25】1930年(昭和5年)・(昭和五年三月 帝都復興式典祭記念)銀座通り櫻花の奉祝光景
【26】三十間堀、水路の街。/(新大東京名所)機上ヨリ見タル銀座大街
三十間堀、水路の街。左の銀座中央通りと右の昭和通り、その間の三十間堀川に架かる三原橋が晴海通りである。昭和通りには樹木が植えられている。三十間堀は、1612年(慶長17年)に開削完成した当時、三十間(54m)あったことにちなみ、1828年(文政11年)手狭になった両岸の河岸地が広げられ十九間(34m)に狭められた。戦後の瓦礫処理で1949年(昭和24年)埋立られ消滅した。手前から今はなき木挽橋・三原橋・朝日橋・豊玉橋がかかっている。時期は10〜20年後にはなるが、小林旭・浅丘ルリ子主演で1960年(昭和35年)公開された日活映画「東京の暴れん坊」では、空撮映像を鮮明なカラーで堪能できる。【26】1940年(昭和15年)頃・(新大東京名所)機上ヨリ見タル銀座大街
【12】屋形船が行きかう情緒ある築地川と三吉橋。/(復興の新東京)京橋区築地三吉橋
屋形船が行きかう情緒ある築地川と三吉橋。震災復興事業の一環として、1929年(昭和4年)築地川に三叉の三吉橋が完成した。現在の中央区役所前の交差点にあたる。築地川が折れ曲がる地点から上方の楓川とを結ぶ連絡運河が開削されY字形となった。そこに架かる15メートル幅の三叉橋は、東京新名所の一つとなった。大正、昭和初期の頃は、荷舟や屋形船が行きかう情緒ある場所だったが、戦後、東京オリンピックに伴う高速道路建設のため築地川は埋め立てられることになる。現在でも、当時のフォルムそのままに三吉橋の綺麗な三叉の橋を見ることができる【12】1929年(昭和4年)・(復興の新東京)京橋区築地三吉橋
【24】最先端の広告、アドバルーン。
最先端の広告、アドバルーン。日本初のアドバルーン広告は、1913年(大正2年)、化粧品会社の中山太陽堂が使用した気球自体に絵や文字を書いた「広告気球」が始まりとされているが、1929年(昭和4年)二代目市川左団次の自由劇場が始まりであると言う説もある。1937年(昭和12年)頃から、朝の銀座上空に20以上のアドバルーンが浮かんでみられるように。しかし太平洋戦争が始まると掲揚は禁止される。戦後初となるアドバルーンは、昭和23年(1948年)に有楽町の日劇屋上から揚げられるも、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で「風船爆弾のイメージが残存する」という理由で、たった1日で中断。その後、昭和26年(1951年)規制が緩和され復活し、セール宣伝はもとより消防出初式や博物館の開館などのイベント告知や慶事の定番となる。東京で揚げられたアドバルーンの数は、1956年(昭和31年)には約10000本、1964年(昭和39年)松屋の新装開店時には一度に553本ものアドバルーンが揚げられたという。【24】1937年(昭和12年)頃
【25】戦争介入で軍隊が行進した銀座。/(大東京)帝都随一の商店街 銀座通
戦争介入で軍隊が行進した銀座。日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。戦局の悪化に伴い1940年(昭和15年)に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1941年(昭和16年)洋風の店名が禁止され、現在も残る文壇バー「ルパン」(菊池寛、里見弴、泉鏡花、永井荷風、川端康成、久米正雄、林芙美子、太宰治が通った)は、「麺包亭」と名乗って営業したという。 1944年(昭和19年)戦局が苛烈を極め、劇場・料理店・待合芸妓屋・バーが閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動も街頭で行われた。街灯や都電のレールが取り外され軍事物資に提供され、食糧不足から畑を耕す人も現れた。【25】1940年(昭和15年)頃・(大東京)帝都随一の商店街 銀座通
【28】銀座の象徴、和光。格調と華麗さを体現。/(大東京)帝都随一の商店街銀座大通り
銀座の象徴、和光。格調と華麗さを体現。銀座のシンボル、和光の時計塔は1932年(昭和7年)竣工。緩やかな弧を描くネオ・ルネッサンス様式。塔の高さは9m、その上に8mの尖塔と避雷針が付属する。四方にある時計文字盤は東西南北を向いており、直径は2.4m。建物の外装材は、関東大震災直後、設計段階で予定されていたテラコッタからより強靭な天然御影石へと変更され当時最高の技術が注ぎ込まれた。時計文字盤や窓部分は、ブロンズでアラベスク(唐草)の繊細な透かし模様の装飾などが施され、店内壁面は伊から輸入された大理石を使用。設計は、後に東京国立博物館本館、旧第一生命館を手がける渡辺仁。日本建築にモダニズムの波が押し寄せた昭和初期に、この建物が重厚華麗なネオ・ルネッサンス様式の姿を身に纏った理由は、当時の服部時計店図案部長、八木豊次郎の強いこだわりに由来する。伝統的な様式を踏襲しながらも新時代の感覚を反映させ、商号である「H」を刻んだレリーフなどディティールに配した。モボ、モガが闊歩する昭和の銀座と石造りのクラシカルな建物が見事に共存する景観が立ち現われた。【28】1940年(昭和15年)頃・(大東京)帝都随一の商店街銀座大通り
【27】街を往く人たちが、車窓の景色だった都電。/(大東京)銀座通り
街を往く人たちが、車窓の景色だった都電。1882年(明治15年)馬車鉄道が新橋〜日本橋間で開業、1903年東京電車鉄道と名を変え電化し、数寄屋橋〜神田橋間に東京市街鉄道が開業した。後に東京市電として公営化し、路線・系統の拡大がされた。絵葉書に描かれているのは昭和10年頃に登場したダーク・グリーンの車体。真鍮の金具を光らせていた。アール・ヌーボーの意匠が施された街路灯、 商店のショーウインドウにも電気のイルミネーションが使われ話題を集めた。1934年(昭和9年)、東京地下鉄道によって敷設された地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が銀座まで延伸し、1950年代より整備が急速に進み、西銀座駅の丸ノ内線が開業。その一方で自動車の増加に伴い、惜しまれつつも都電は昭和42年に廃止された。【27】1940年(昭和15年)頃・(大東京)銀座通り
【29】享楽から戦争の時代へ。/東京 紀元2600年式典 銀座街
享楽から戦争の時代へ。日中戦争(支那事変)の長期化、物資統制による国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうと、1940年(昭和15年)「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。神武天皇の即位から2600年目を祝い、「神国日本」の国体観念を徹底させようという動きが時節により強められた。内閣主催の行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達し、奉祝曲も作曲された。しかし参加者への接待も簡素化され、終了後に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた。さあ働かう!」の標語の如く、再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活は厳しさを増していくことになる。銀座では、贅沢は敵だ、パーマネントはやめましょうと呼びかけられ、1944年(昭和19年)街灯や都電のレールが取り外されて軍事物資に提供され、歌舞伎座も休場を命じられ、華やかなネオンも消えた。昭和通りは芋畑に変わった。1945年(昭和20年)1月、泰明小学校にも撃弾が落とされ、その後、度重なる空襲を受け全域が焼き尽くされた。【29】1940年(昭和15年)・東京 紀元2600年式典 銀座街
【23】二・二六事件の舞台にもなったモダニズム建築の傑作。/銀座より数寄屋橋を望む
二・二六事件の舞台にもなったモダニズム建築の傑作。今はなき有楽町の日劇と朝日新聞本社。朝日新聞は、1888年(明治21年)大阪にあった朝日新聞社が自由燈、燈新聞の流れを汲む新聞を買収し、東京朝日新聞と名前を変え創刊したのがルーツである。当時の社屋は、現在の銀座6丁目(旧・京橋区瀧山町)にあった。1907年(明治40年)夏目漱石が小説記者として、1909年(明治42年)石川啄木が校正係として入社したという驚きの社歴を持つ。1927年(昭和2年)有楽町の新社屋に移転。モダニズム建築の代表作として建築史上知られる白木屋デパートを手掛けた石本喜久治が設計を担当。本社事務機能、印刷工場、読者が来訪できる展示場、大講堂などを備えた多機能ビルだった。5角形の敷地形状に対する配置、階層の動線処理など平面計画に特徴がある。外観は隅角部に丸みを持たせ、事務所窓を端正な矩形、大講堂窓を半楕円形とし、バルコニーを壁面から張り出しアクセントとした。真横を江戸城外掘が流れていた。竣工した年、二・二六事件の舞台となり反乱部隊の襲撃を受ける。1940年(昭和15年)「朝日新聞」に改題。1980年(昭和55年)築地に移転し、跡地が有楽町マリオンとしてなり今に至る。【23】1937年(昭和12年)頃・銀座より数寄屋橋を望む
【30】終戦。占領下の銀座。/・Tokyo P.X. at Ginza Street
終戦。占領下の銀座。太平洋戦争での敗戦後、アメリカ進駐軍はGHQ(連合軍総司令部)を置き、都内600箇所の建物を接収し、戦車で都内を行軍して回った。銀座では服部時計店、次いで松屋、伊東屋がPXとして接収され、戦前とは違う街並みとなった。PXとは“Post Exchange”の略で、米軍基地内の売店を指し、日本人客は立ち入れない、アメリカ軍人と家族のための店舗である。接収は7年間続き、1952年(昭和27年)9月に返還式が行われ、半年以上をかけて建物内外の新装、社員教育など準備を整え、翌年5月新生松屋としてオープン。新たな歴史を歩み始めることに。かたや、接収されていた1947年(昭和22年)服部時計店の小売部門の業務を継承し、株式会社和光が設立され、銀座5丁目の仮営業所が設けられた。接収解除後、現在の和光本館にて事業を開始。これを記念し、ショーウインドウを当時の気鋭のデザイナーが競作し、以後現在に至るまで、和光のショーウインドウは、「銀座の顔」として定着した。【30】1946年(昭和21年)・Tokyo P.X. at Ginza Street
【34】商人の気質、銀座らしさを継承。/(東京名所)銀座通り
商人の気質、銀座らしさを継承。高度経済成長期の銀座。60年代、70年代の高度経済成長期になると、関西など全国から、銀座にやってきて商売をする人々が増えた。銀座の商売人が自ら店頭に立って丁寧に接客するのとは異なり、大阪の商売人は品揃えや安く提供することに専念し、販売は若い店員に任せ、店主は仕入れに徹する。昔から銀座で商売をしている旦那衆にしてみれば、銀座らしさが失われると心配した。結局、地方から銀座にやってきた人々が、銀座のスタイルに自ら同化(銀座ナイズ)していくことになる。「今までのやり方では商売にならない。売るためには銀座の流儀を守らなくては」と考えた。今でも銀座には関西出身の商店主が多く、銀座らしさが継承されているのである。【34】1962年(昭和37年)頃・(東京名所)銀座通り
【33】ソニービル。流行発信するショールーム。/銀座ネオン夜景
ソニービル。流行発信するショールーム。1957年(昭和32年)、数寄屋橋に東京通信工業株式会社(後のソニー)がネオン広告塔を設置。トランジスタラジオ発売2年後の当時、初めて豆球を使用したネオン広告看板が話題になった。1959年(昭和34年)ショールームオープン。約20坪足らずのフロアに製品を並べた。「この銀座・数寄屋橋の一角を永久に確保し、多くの面での効果を永続的に得たいと考え、ここにソニービルを建設することになったのであります」と宣言し、1966年(昭和43年)ソニービルがオープン。芦原義信設計、グッゲンハイム美術館を参考に世界初『花びら構造』のユニークな建築様式を採用。正確さと装飾を廃した機能美、ビル自体がソニー製品であるかのように表現された。外壁に埋め込まれた2300個のブラウン管テレビ、パネルヒーティング、日本最高速エレベーターなど、新しい構想で話題をさらい1日平均2万人を超える盛況だった。その後、松下電器=テクニクス銀座ショールーム、日立製作所=Lo-Dプラザ、東京芝浦電気=東芝銀座セブン、日本ビクター=ニッパーズギンザが続き、日産自動車も銀座ギャラリーを開設した。【33】1960年(昭和35年)・銀座ネオン夜景
【31】ネオン広告塔が夜の銀座を照らす。
ネオン広告塔が夜の銀座を照らす。銀座の夜を華やかに彩った高層ネオンは、1953年(昭和28年)晴海通りに面した不二越ビル(現在のアルマーニ銀座タワー)屋上に登場した森永ミルクキャラメルの広告塔。通称「サボテン」と呼ばれた地球儀。「ヒトデ型」のナショナル(現・パナソニック)は、当時3階建だった鳩居堂ビル屋上に、建物の2倍以上という巨大な大きさが話題に。銀座の名物になり、絵葉書や映画にも登場した。1963年(昭和38年)三愛ドリームセンターが完成すると目立たなくなって姿を消し、鳩居堂ビルも三愛と同じ高さのビルに改築された。雪印ネオンサインは、三愛ドリームセンタービルができる場所にあり、雪の結晶をまばゆく演出した。【31】1955年(昭和30年)頃
【35】帝都の象徴、東京駅。/東京名所東京駅
帝都の象徴、東京駅。東京停車場(東京駅)は、日清戦争や日露戦争の停滞を経て、明治41年着工した。近代建築の父と呼ばれる辰野金吾が設計を手がけ、赤煉瓦と白い花崗岩を組み合わせた様式は「辰野式」と呼ばれる。1914年(大正3年)開業。コンクリートを多用したレンガ造のため、関東大震災では大きな損傷もなかったという。しかし1945年(昭和20年)の空襲で、耐火に優れた鉄骨煉瓦造の外観は残ったものの、ドーム屋根や内装はが焼失。戦災復旧工事で3階建駅舎が2階建にされ、焼失した壮麗なドームは八角形の寄棟となった。絵葉書の左に写るのは、今はなき旧国鉄本社ビル新館。1963年(昭和38年)竣工。新館は地上9階・地下3階で運輸省・国鉄本社の中枢が入った。ルネッサンス様式の優美な旧館は大戦中、空襲対策として1トン爆弾に耐える耐弾層を設置し、窓に木製の爆風避を設置し、外壁を迷彩塗装する工事が行われたという。【35】1963年(昭和38年)頃・東京名所東京駅
【32】国内諸街道の元標。/(東京名所)日本橋
国内諸街道の元標。日本橋は、中央区日本橋一丁目と室町一丁目との間にある日本橋川に架かるコンクリート造りの橋である。1603年(慶長8年)江戸幕府が開かれたとき日本橋、京橋一帯の新市街ができ、日本橋はそのとき初めて架けられたもので、翌年には日本橋を起点として諸街道の里程を定め、一里毎に一里塚が置かれた。1873年(明治6年)に「東京は日本橋。京都は三条の中央を以て国内諸街道の元標とす」と定められ、今も橋の中央に道路元標の鉄塔が建っている。現在の橋は1911年(明治44年)架け替えられたものである。1964年(昭和39年)東京オリンピックの前年、日本橋川を塞ぐように首都高速道路が建設され本来の景色を失ってしまった。戦災復興による道路整備が計画どおりに進まず、五輪へ向けて都心部の交通混雑を回避するため川や沿岸部などの空間を利用しての整備だった。その後、日本の高度経済成長を支える重要インフラとして活躍したが、すでに50年が経過して更新時期を迎え、景観を取り戻す署名運動も行われ、地下化が検討されている。【32】1955年(昭和30年)頃・(東京名所)日本橋
【36】日本初の高速道路。モータリゼーションの時代。
日本初の高速道路。モータリゼーションの時代。1964年(昭和39年)東京オリンピック開催に向け、戦後の東京大改造の一環として、新橋から京橋までの旧江戸城外堀が埋め立てられ、その上に東京高速道路が建設された。日本で唯一の民間による、店舗ビルの屋上を道路が走る高速道路ビル。1962年(昭和37年)開通した首都高速よりも歴史が古く、部分開通は1959年(昭和34年)に遡り、1966年(昭和41年)全線開通。夜は銀座のまばゆいばかりの光が見えて美しいが、中央分離帯がない対面走行となり注意が必要な道路である。一般自動車道と異なり区間内のみであれば無料で通行可能。これは東京都が建設を許可する際に、公共河川を利用することから無料化を条件としたためである。高架下地下1階から地上2階に「有楽フードセンター」が誕生。当時としては、駅ビルもない時代。食に関する総合デパートといえる規模で注目された。都庁移転問題を契機に1989年(平成元年)名称を「銀座インズ」し全面リニューアルされた。【36】1963年(昭和38年)
【37】高度経済成長期に始まった歩行者天国。/三愛ビルネオン
高度経済成長期に始まった歩行者天国。1964年(昭和39年)東京オリンピックが開催され、1969年(昭和44年)GNP世界第2位となるなど、高度経済成長の時代に。1965年(昭和38年)完成した三愛ドリームセンタービル。リコー創業者市村清が戦後間もない1946年(昭和21年)旧六十九銀行跡地に2階建のビルを建設し、以後この地から経営拡大。法隆寺五重塔をヒントに「建物中心に大きな柱を立ててビル全体を総ガラス化させた円筒型のビル」を考案、名称も一般公募で決定した。外壁には社章である眼鏡のマークが配してあった。三菱電機スカイリングのネオンも長年親しまれた。その他にも、銀座最大を誇った東芝ビル、銀座ライオンビル、名鉄メルサ、資生堂ザ・ギンザなど、新しいビルが次々と建てられた。中央通りでは、1970年(昭和45年)歩行者天国が実施されるようになり休日の定番となる。【37】1965年(昭和38年)頃・三愛ビルネオン
All text written by R.KAWASAKI 〚KAWASAKI BRAND DESIGN INC.〛