Architecture建築空間の紹介

それは、90年の歴史を刻む建築と
新しい未来を導くアートが『共創』する特別な空間。

時を刻むことで深みが出る人生のように、建築も味わいが醸成され、魅力を増していきます。

MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesignBldg.は、
東京大空襲を生き延び、90年の永きに亘り東京の歴史を見守ってきました。
現在では高層ビルに挟まれながらも凛とした印象で佇む、銀座昭和通り沿い唯一の近代建築です。
当時流行した加飾タイル外壁や杉天井など日本建築のクラフトマンシップが散りばめられた
時を超え、語り継ぐべき素晴らしい建築でもあります。
高層タワー新築による取り壊し計画から一転、レトロな魅力に惹かれ、保存を決断。
奇跡的に美しいギャラリーとして現代に蘇りました。

銀座は、常に新しいものを受容し、流行を発信し続ける街です。
MUSEE GINZAは、近代建築の魅力を最大限引き出すため、新しい価値観を発信します。
「時間軸・都市空間・現代世相」をテーマにした展覧会を企画・開催。
創る者、観る者、そして関わるすべての人々の知性を刺激し、思考力を掻き立てます。
記憶に刻み込まれるMUSEE(美術館)を志し、未来に向けて共創していきます。

MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesign: Home to the only European-style building on Tokyo Ginza’s Showa-street, a structure erected 91 years ago. Today, the building is reborn as an art gallery. Plans for a new skyscraper were scrapped after local residents voiced affection for the building, which is now being kept as a piece of history. White walls act in concert with a traditional Japanese cedarwood roof in this three-story space, which can open an exhibition of artist’s talents. We invite you to explore this building’s historic roots while helping us create the next generation of art.

 

 

建築・ビル外観 MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesignBldg.×加飾 スクラッチタイル(オリジナル)

 

 

 

 

 

 

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メインギャラリーX レンタルスペース・レトロホワイトキューブ

 

 

 


2018年9月、装い
新たにフルリニューアルした、MUSEE GINZA メインギャラリー空間。レトロ×ホワイトキューブをテーマに、1932年竣工当時から存在するコンクリートをダイヤモンド研磨。90年前のコンクリートが美しくロマンスグレーの光沢を放って甦りました。

 

緊張感ある白壁と高演色の特殊照明、可動式壁を備え、現代アートが美しく展示できるホワイトキューブ空間となりました。また、さまざまな展示会イベントにも対応。銀座で最も古く、しかし最先端の流行を発信するエッジの効いた空間。記憶に残る展覧会・展示会・イベントでご活用ください。

 

空間レンタルの概要、スケジュール、価格はこちら

 

ギャラリーY  MUSEEコレクション 山口 歴/(mini space)ネオダダ 風倉 匠

昭和通りを斜めから見下ろすことができる空間、ギャラリーY。この日本建築美の杉天井に呼応する、現代的なMUSEEコレクションを常時公開する空間です。

 

ここでは、NYを拠点に活躍するアーティスト 山口 歴(meguru yamaguchi)の代表的なシリーズ「OUT OF BOUNDS」11作品、「SPLITTING HORIZON」2作品を展示。光沢鮮やかに勢いある合計13作品が観るものを圧倒します。全く新しいHORIZON(領域、経験)を産み出そうと今この瞬間も果敢に挑戦する若手アーティスト山口歴。その成果は、ISSEY MIYAKE、Audi、NIKE、UNIQLOとのコラボレーションで世界展開されます。今後の活躍、一瞬たりとも目が離せません。 www.meguruyamaguchi.com

 

ギャラリーZ【Rf 屋上】展望・実験インスタレーション空間

 

 

 

 

銀座・昭和通りをダイナミックに臨む空間。容積率緩和により現在では60メートル近い高層ビルが立ち並ぶ都内屈指の幹線道路、昭和通り。関東大震災後の都市計画で誕生した当初は、2〜3階建ての商店が立ち並び、道路の中心には公園が整備されていたそう。その頃から変わらない立姿である3階建のMUSEE。そこからのパノラマテックな眺望を、先人たちは想定していたのでしょうか。

 

2018年秋、MUSEEブルーの特殊防水塗装を施しリニューアル。大都会東京・銀座の空、夜景を想いのままに取り込むことができます。若手美術家のインスタレーション、パフォーマンスイベントなど実験的な展示に対応した特別な空間です。

エントランス・ショーケースW パルナスウィーンインテリア

 

 

 

通路・階段 「銀座歴史資料  Ginza Historical District 」

 

銀座の都市空間を時間を超えて俯瞰する、MUSEEだけの新スポット誕生。銀座の歴史は、日本近現代史、首都東京の都市開発の歴史。レトロ絵葉書とともに、一気にプレイバックしましょう。

 

 

 

 

官主導の煉瓦街から始まった銀座 銀座の都市空間、その歴史的経緯からスタートしよう。江戸時代の街並みが大火で消えた翌1873 年(明治6 年)、明治政府主導で銀座に、洋風2階建ての煉瓦街が誕生した。国家予算の4%弱を費やし、大蔵省建設局(井上馨)が直営施工、ロンドンのリージェント・ストリートがモデルに、お雇い外国人ウォートルスが設計を担当した。世界でも類も見ない大規模な煉瓦街は、帝都の象徴として国内外にアピールする役割を担ったそうだ。 銀座から徒歩圏の新橋駅が開港地横浜との直結したため、舶来品が集まりやすかったこと、新聞社が集中し流行発信したこと、江戸以来の職人街がのこったこと、これらが融合し銀座の礎となった。今や老舗とされる、あんぱん「木村屋總本店」、菓子「風月堂」、洋装品「ギンザのサヱグサ」、書画文具「鳩居堂」、天ぷら「銀座天國」、洋食「煉瓦亭」が銀座に誕生。1894年(明治27年)輸入時計・宝飾品等を扱う服部時計店の創業者・服部金太郎が、その銀座四丁目交差点の朝野新聞社を買い取り、増改築し初代の時計塔が誕生したのもこの頃である。<明治煉瓦街、初代「時計塔」。>銀座のシンボル、和光の時計塔は実は2代目。文明開化の音が鳴り響き始めた1872年(明治5年)2月、火事が発生し銀座一帯が焼け野原となった。後に「銀座大火」と呼ばれ、焼死8人、負傷者60人、焼失戸数は4874戸といい、これを機に明治新政府は銀座を耐火構造の西洋風の煉瓦街へ改造することとなった。帝都の象徴として再出発である。1894年(明治27年)輸入時計・宝飾品等を扱う服部時計店の創業者・服部金太郎が、その銀座四丁目交差点角地の朝野新聞社の建物を買い取り、初代の時計塔として増改築した。この煉瓦街から、現在の老舗と呼ばれる名店が銀座に店舗を構えた。あんぱん「木村屋總本店」、菓子「風月堂」、洋装品「ギンザのサヱグサ」、海軍病院薬局長を辞した福原有信による調剤薬局からスタートした「資生堂」。書画文具「鳩居堂」、天ぷら「銀座天國」、洋食「煉瓦亭」が誕生したのである。新橋駅による開港地横浜との直結し舶来品が集まりやすく、新聞社が集中し流行発信する土地柄、江戸以来の職人街に住む職人の細やかな技術、これらが融合し銀座の礎となった。  大正時代に入ると、ジョージアン様式の赤煉瓦街の均質な街並みに、塔や時計が取り付けられる変化が起きる。高い文化意識を備えた銀座人が台頭し、現代に通じる気品と格式ある都市空間が創造された。単に銀座で商品を売ることにとどまらず、文化人として建てる建築にこだわりを見せた。その代表格が、調剤薬局からスタートした「資生堂」である。初代社長の福原信三は、1916 年(大正5 年)に、明治建築界に君臨した辰野金吾と交流を持ち、煉瓦造3 階建の化粧品部ビルを完成させる。パリ万博でアール・デコが発表される以前にそれを予感させる装飾を持ち込んだ。資生堂ギャラリーも開設し、芸術家を発掘紹介する文化事業もスタート。その後、日動画廊をはじめ多くの画廊が開廊。文化教養人が集うカフェー文化とともに、演出の場として銀座が開花したのだ。1915年(大正4年)冬には、天皇即位を祝したイルミネーションが外観に灯されたという。

震災復興とモダニズム建築のオンパレード  1923(大正12) 年9月1日に発生した関東大震災。東京市3,830ha、横浜市950ha が焼失し、銀座の街も壊滅的に倒壊した。その様子を伝えるモノクロ絵葉書には、瓦礫が溢れ焦土と化した中央通りを逞しく歩く人々が克明に写されている。復興建築として焼け野原に出現した仮店舗壁面をキャンバスに「バラック装飾」と呼ばれる若い美術家達のアート運動が見られたという。 帝都復興院総裁に後藤新平が就き、共に復興を推進した建築家佐野利器は、耐震工学に重きを置き「構造派」と呼ばれていた。単純な箱を提唱したのでなく新しい意匠デザインを重視した。都市不燃化の一環として、当時まだ珍しい鉄筋コンクリート造による復興小学校が建築され、フランスの都市計画に倣い「昭和通り」も新たに整備された。バウハウスの影響が見られる表現派【東京中央郵便局・吉田鉄郎】、機能重視のインターナショナルスタイル【白木屋デパート・石本喜久治】、ライトの様式【銀座ライオン・菅原栄蔵】、アール・デコ様式【教文館・Aレーモンド、交詢社ビルディング・横河時介】、装飾が多い折衷様式【築地本願寺・伊藤忠太】、和風屋根をかけた帝冠様式【歌舞伎座・岡田信一郎】など、モダニズムな建築空間が一斉に生み出されることになったのだ。 1924 年(大正13 年)松坂屋を皮切りに、松屋、三越が進出。銀座は東京随一の商業地になる。百貨店は次々と新機軸を打ち出し、それまでの慣例だった下足預かりの廃止し、バス送迎、くじ景品、ヒョウやライオンがいる動物園、水族館など、新商法で競い合い話題をさらう。新進気鋭の商人も、ショーウィンドウを設けた高級商店や専門店が立ち並び、「銀ブラ」=街歩きができる空間が誕生した。モダンライフを謳歌する人々が集まり、モガ(モダンガール)とモボ(モダンボーイ)のファッションは最先端を行くものだった。女性は洋服、洋髪、男性は青いスーツに派手なネクタイできめ、映画館や喫茶店での優雅な休日を楽しんだ。コーヒー一杯10銭、映画の入場料金40銭、パーマネント代が20円、銀行大卒主任給70円の時代。ダンスホールで遊び、西洋のスポーツを、カフェーでは世界各国の酒が揃いアイスクリームやケーキも嗜んだ。意匠を凝らした気品ある店舗、美しさが街路にも溢れる。銀座を憧れの街とし「フォーマルに決めて小粋に遊ぶ」流儀、古きを守り新しきを生み出す風土が生まれた。それらは現代の銀座に継承されている。享楽から戦争の時代へ 日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。1940 年(昭和15 年)贅沢品の製造販売禁止令、電力制限による広告灯・ネオンサインが消滅した。日中戦争の長期化、物資統制による国民生活の窮乏や疲弊感を晴らそうと内閣主催で「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。神武天皇の即位から2600年目を祝い「神国日本」を徹底させようと祝賀ムードは最高潮に達し、奉祝曲も作曲された。しかし参加者への接待は簡素化され、終了後に貼られた大政翼賛会のポスター「祝ひ終つた。さあ働かう!」の標語の如く再び引き締めに転じ、戦時下の国民生活は厳しさを増していくことになる。 1941 年(昭和16 年)洋風の店名が禁止され、現在も残るルパン(菊池寛、里見弴、泉鏡花、永井荷風、川端康成、久米正雄、林芙美子、太宰治が通った文壇バー)は、麺包亭と名乗り隠れて営業したという。1944 年(昭和19 年)には戦局も苛烈を極め、劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊が行進し「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょう」と贅沢を諫める運動なども街頭で行われる。街灯や都電のレールが取り外されて軍事物資に提供され、歌舞伎座も休場を命じられ、昭和通りは芋畑に変わった。1945年(昭和20年)1月、泰明小学校にも撃弾が落とされ、その後、度重なる空襲を受け全域が焼き尽くされることとなった。 終戦まもなく、GHQ(連合軍総司令部)が服部時計店、松屋、伊東屋をPX として接収。PX とは“Post Exchange” の略で、米軍基地内の売店を指し、日本人客は立ち入れないアメリカ軍人と家族のための店舗。解除されるまでの7年間、軍服を着た軍人が溢れ、英語の道路標識が建てられ、銀座はインターナショナルな街となった。GHQ接収をされた松屋を写した絵葉書では、外壁の縦看板に大きくTOKYO PXと掲げられた様子が見て取れる。隣の伊東屋もクラシカルな外観。天井高が高い建築がPXに選ばれたとする説もある。 1947年(昭和22年)服部時計店の小売業務を継承し、銀座和光が設立。接収解除を記念し始まった、ショーウィンドウディスプレイでは当時気鋭の原弘、亀倉雄策、伊藤憲治らが競作。訪れた人をもてなし感動を呼び起こす演出で、銀座の顔として定着した。
高度経済〜現代、最も変貌を遂げつつある銀座 1964 年(昭和39 年)東京オリンピック開催、高度経済成長の時代。地球儀型の森永キャラメル、ヒトデ型のナショナル、雪の結晶の雪印が、夜の銀座を華やかにネオンが照らした。 そしてランドマーク建築が多数生まれる。4丁目交差点の三愛ドリームセンタービルは、法隆寺五重塔をヒントに総ガラス化させた円筒型、名称を一般公募で決定した。銀座最大を誇った東芝ビル、銀座ライオンビル、名鉄メルサ、資生堂ザ・ギンザなど、新しいビルが誕生。 特に注目されたソニービルは、ビルそのものが工業製品であるかのような端正な佇まい。外壁覆った2300個のブラウン管テレビ、日本最高速エレベーターなど新しい構想で話題さらった。その後、ショールームの街として銀座が機能することとなる。1970 年(昭和45 年)歩行者天国が中央通りでスタートし休日の定番となった。 昭和60年代、バブル景気に湧いた銀座。銀行や証券会社など金融機関が中央通りに多数出店した。閉店時間が早いため街のにぎわいが失われることになる。地価上昇するも高騰しすぎたため売買は盛んではなかったという。平成不況、デフレ経済に入ると、地価が安くなるのを待って進出してきた外資系ブランドが旗艦店を構え、大手ストアチェーン店が進出するなど銀座の雰囲気を変えていくこととなる。 銀座地区には、銀座の風格を維持するため地元と中央区が協議し生まれた「銀座ルール」と呼ばれる地区計画があり、建物は56mに高さ制限されてきた。松坂屋の超高層化は見送られるも、日本伝統芸能の継承を名目に特例措置として2013年(平成25年)歌舞伎座タワー(145m)が実現。東銀座界隈の景観、人の流れを変えることとなった。 そして昨今は、金融緩和政策の波に乗り、設備投資が活況になり、伊東屋、MIKIMOTOがリニューアル。新たな商業施設としてキラリトギンザ、東急プラザ、そしてGINZA SIXが誕生した。かつて無いほどのダイナミックな新陳代謝が進み、魅力溢れる街並みが創られている。 バブル崩壊、平成不況を経て、ブランドの集積地となった銀座。そして、再開発。いまや銀座は、外国人観光客が真っ先にめざす日本を代表する観光地となった。明治以降、舶来品の流行を取り込み発信してきた銀座が、今度は世界が注目するエリアへと変貌しつつある。ここから何を発信するのか、真価が問われることとなる。歴史に裏付けされた銀座の都市空間、その魅力が深まるばかりだ。MUSEE GINZA の建つ 昭和通りは、震災復興事業として計画、新しく建設された道路だ。原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅45メートルに狭められ1928 年(昭和3 年)完成。欧米に匹敵する都市景観を作り出そうと、中央の分離帯には植栽が施され、後に築地に移転する日本橋魚河岸の真ん中を突っ切った。 多摩美術大学環境デザイン学科の学生(岸本章 教授監修)によるMUSEE仮想リノベーションプラン。木挽町時代を彷彿とさせるエリアに、カフェ、シェアオフィス、ライブハウス、ヴィンテージカーのショールーム、個人住宅、浮世絵ミュージアム、植物プラントと、若い学生達がイノベーティブで個性的な提案を行った。建築というハードだけでなく、ソフト(ビジネスモデル)も真摯に考えられ、銀座の人々が心地よく回遊するMUSEEが示された。

歴史に裏付けされた銀座の都市空間 銀座のシンボル、和光の時計塔は、MUSEEと同じ1932(昭和7)年竣工。緩やかな弧を描くネオ・ルネッサンス様式。設計は後に東京国立博物館本館を手がける渡辺仁。日本建築にモダニズムの波が押し寄せた昭和初期に、重厚華麗なネオ・ルネッサンス様式の姿を纏った理由は服部時計店図案部長、八木豊次郎の強いこだわりに由来する。伝統的な様式を踏襲しながらも新時代の感覚を反映させ、商号の「H」を刻んだレリーフなどディティールに配した。モボ、モガが闊歩する昭和の銀座と石造りのクラシカルな建物が見事に共存する景観が立ち現われた。MUSEEGINZAの建つ 昭和通りは、震災復興事業として計画、新しく建設された道路だ。原案では道幅を108メートルとするものであったが、広い道路の重要性が当時は受け入れられず、結果現在の道幅45メートルに狭められ1928 年(昭和3 年)完成。欧米に匹敵する都市景観を作り出そうと、中央の分離帯には植栽が施され、後に築地に移転する日本橋魚河岸の真ん中を突っ切った。 多摩美術大学環境デザイン学科の学生(岸本章 教授監修)によるMUSEE仮想リノベーションプラン。木挽町時代を彷彿とさせるエリアに、カフェ、シェアオフィス、ライブハウス、ヴィンテージカーのショールーム、個人住宅、浮世絵ミュージアム、植物プラントと、若い学生達がイノベーティブで個性的な提案を行った。建築というハードだけでなく、ソフト(ビジネスモデル)も真摯に考えられ、銀座の人々が心地よく回遊するMUSEEが示された。 歴史に裏付けされた銀座の都市空間
銀座のシンボル、和光の時計塔は、MUSEE GINZA_KawasakiBrandDesignBldg.と同じ1932(昭和7)年竣工。緩やかな弧を描くネオ・ルネッサンス様式。設計は後に東京国立博物館本館を手がける渡辺仁。日本建築にモダニズムの波が押し寄せた昭和初期に、重厚華麗なネオ・ルネッサンス様式の姿を纏った理由は服部時計店図案部長、八木豊次郎の強いこだわりに由来する。伝統的な様式を踏襲しながらも新時代の感覚を反映させ、商号の「H」を刻んだレリーフなどディティールに配した。モボ、モガが闊歩する昭和の銀座と石造りのクラシカルな建物が見事に共存する景観が立ち現われた。
 

All text written by R.KAWASAKI 〚KAWASAKI BRAND DESIGN INC.〛