Column コラム 『19世紀末ウィーンにおけるコロマン・モーザーの革新的なデザイン 』

すべてのインテリア様式に時代的背景があります。
歴史を振り返ることで、より深いインテリアを知ることが出来るでしょう。
主宰が今までにまとめた論文を抜粋して、コラムとしてまとめました。

王侯、貴族が権力を握っていた時代、インテリア様式のすべて決定していたのは、彼らでした。
権力者が変わるたびに、英国ではビクトリアン様式やエドワーディアン様式、フランスではロココ様式やアンピール様式
というように、家具、照明具はもちろんのこと、食器や銀器に至るまで、総合的にインテリア様式が変化しました。
しかし、政治的革命によって、市民に権力が移ると、自由なインテリア様式が誕生したのです。
19世紀末ウィーンにおいても、市民による独自のインテリア様式が誕生しました。
それを牽引したのが、新しい芸術団体であるウィーン分離派であり、ウィーン工房だったのです。
パルナスウィーンインテリア主宰 川崎弘美は、19世紀末に活躍した芸術家の中で、コロマン・モーザーに注目しました。
彼は、日本ではそれほど知名度がありませんが、優れた独自のデザインを行なった総合芸術家でした。
モーザーの空間デザインに焦点をあてて、研究を継続しています。その一部をご紹介いたします。

When royalty and titled nobility seized power, they were the ones who decided on interior style. When the rulers changed in Britain there were Victorian and Edwardian styles; in France there were Rococo and Empire styles. A general change of interior style was effected, which including furniture, lighting, tableware and silverware. But when there was a political revolution and power shifted to the hands of the people, free interior style was born. And in 19th century Vienna, there was the birth of a unique interior style. Heading this was the new arts group, the Vienna Secession, from their studio in Vienna. The chairman of this group at the end of the 19th century was the artist Koloman Moser. While not well known in Japan, he was a versatile artist who produced unique and wonderful designs. I am currently conducting research focusing on his spatial design, part of which I will now introduce.

『 19世紀末ウィーンにおけるコロマン・モーザーの革新的なデザイン 』

パルナスウィーンインテリア 主宰
川崎 弘美

川崎ブランドデザイン有限会社 取締役
インテリアコーディネーター・文学修士(美術史)

はじめに

 主宰者の研究論文を抜粋して紹介します。
 19世紀末ウィーンで活躍した芸術家コロマン・モーザー(Koloman Moser/1868-1918)による空間デザインについて継続して研究を進めています。空間デザインとは、空間をいかに構成するかということと、内部のインテリアデザインを意味します。そして、空間デザインには、展覧会などのための一時的なデザインと、住宅、店舗などのようにある程度の期間存続するデザインとがあります。

 モーザーは、19世紀末ウィーンにおいて、新しい芸術団体「ウィーン分離派」と建築、工芸、家具デザインを提供する有限会社
「ウィーン工房」を中心に活動した芸術家です。彼は、本来は画家であり、彼のグラフィックデザインは早くから評価されました。そして、彼は、工芸、家具デザインの分野でも優れた作品を残しました。晩年は絵画を中心に制作しました。しかし、当時は建築家が建物の設計とともに、インテリアデザインを手掛けることが多かった中で、画家であるモーザーが、この分野で成果を残していたことは、日本ではあまり知られていません。それゆえに、ここで、新たなモーザー像を浮き彫りにしていきたいと考えます。さらに、注目すべきことは、100年以上前に、モーザーが、現代に通じるかのような革新的に簡素な空間を示したことです。それは、現代の空間に多く見られる白いシンプルなインテリアデザインの原点であるかのように感じられます。

 まず、モーザーに関する資料を見ていくと、著書では、藤本幸三『コロマン・モーザー』(INAX 1992年)、ヴェルナー・フェンツ『コロマン・モーザー/グラフィック・工芸・絵画』(ウィーン 1984年)、マリア・レンホーファー『コロマン・モーザー/生涯と作品 1868-1918』(ウィーン 2002年)などがあり、モーザーを多才な芸術家として評価しています。「ウィーン工房」については、ヴェルナー・シュヴァイガー『ウィーン工房/芸術と手工芸 1903-1932』(ウィーン1982年)があり、モーザーの作品を取り上げています。空間デザインに関する新見隆『空間のジャポニズム』(INAX 1992年)では、モーザーによる空間デザインを「潔癖な空間を恐れない造形」であると表現しています。

 欧州では、モーザーに関する論文があります。ヴェルナー・フェンツは、「ウィーン分離派の原動力としてのコロ・モーザー」(ウィーン1984年)で、空間デザイン、家具デザインに取り組んだ装飾家としてモーザーを評価しています。アイラ・ヒラースは、「コロマン・モーザー-1904年の若い夫婦のための住宅デザイン(ウィーン2001年)で、モーザーの作品への日本美術の影響を論じています。

 日本では、過去15年間に、19世紀末ウィーンに関する展覧会は15回行なわれましたが、モーザーの特集展は開催されていません。一方欧州では、「コロマン・モーザー1868-1918」(オーストリア工芸美術館 1979年)など、モーザーの企画展が行なわれました。特に、2007年にウィーンのレオポルド美術館で開催された大規模な回顧展「コロマン・モーザー 1868-1918」展で、空間デザインも含めた総合芸術家としてのモーザーが再評価されました。この展覧会では、絵画、工芸作品とともに、モーザーの空間デザインを再現した展示が示されました。そして、この展覧会カタログで、ゲルト・ピヒラーは、モーザーの住宅について多く記述しています。

  • コロマン・モーザー(1868-1918)
  • 《「コロマン・モーザー 1868-1918」展》

1.モーザーの生涯

 モーザーは、50年の生涯の中で多くの芸術作品を制作しまししたが、彼による言葉は多く見出されません。しかし、亡くなる2年前に書かれた自伝的エッセイ「机とアトリエから-私の経歴」(ウィーン 1916年)に残されていますので、これを参考にモーザーの生涯を追っていきます。

 モーザーは、1868年3月30日にウィーンで生まれました。彼の父ヨーゼフはウィーン出身で、テレジアヌム校の管理の仕事をしていました。母テレーゼはハンガリー出身で、姉がいたことが確認されています。父の職場であるテレジアヌム校は、1746年にマリア・テレジアが離宮を学校に転じて創設した良家の子弟のためのギムナジウムでした。その校内には家具や製本など様々な工房があり、モーザーは幼少の時からそこに自由に出入りしていました。彼は自伝的エッセイで、「テレジアヌムはひとつの小さな世界だった。今日の私があるのは子供時代に出会ったテレジアヌムの人々のおかげである。当時、美術工芸の技術を遊びとして習熟出来たことが、私の将来を決定したといえる」と回想しています。

 その後、モーザーは、実業学校を経て、ウィーン美術アカデミーに1886年から1892年まで在籍しました。しかし、伝統的な美術教育に疑問を抱いた彼は、1893年にウィーン工芸美術学校に移籍します。ここで師事したフランツ・フォン・マッチュ教授を介して、その後の芸術活動をともにする画家グスタフ・クリムトと出会ったことは、モーザーにとって大きな出来事でした。

 モーザー20歳の時、父が他界したため、彼は生計を立てる必要から、『ウィーン・モード』、『メッゲンドルフ・ユーモア新聞』などのために挿画を描き、早くもグラフィックデザイナーとしてのスタートを切りました。そして、1897年に旧体制から分離して設立された芸術団体「ウィーン分離派(Secession)」において、主要メンバーとして本格的な芸術活動を開始しました。この運動の起こりは、1880年創業のカフェ・シュペルルにおける「七人クラブ」と呼ばれた建築家ヨーゼフ・ホフマン、画家クリムトを含めた芸術家の集まりでした。

  • 《カフェ・シュペルル》 
  • 《機関誌『ヴェル・サクルム』》

 「ウィーン分離派」の主な活動は、機関誌『ヴェル・サクルム』の発行と、展覧会の開催でした。『ヴェル・サクルム』とは、ラテン語の「聖なる春」の意味です。春に動植物を神に捧げる古代イタリアの風習に起因し、「ウィーン分離派」の神聖な精神を象徴していると考えられます。この冊子の形状は正方形で、月に1,2回、6年間出版されました。その内容は、美術理論、作家の寄稿文、詩などで、その周りを「ウィーン分離派」のメンバーによる挿画で飾った芸術性の高いものでした。モーザーは、編集委員として活躍するとともに、自ら紙面に曲線的な女性像、抽象的文様などを描きました。それ以外にも、彼は、カレンダー、本の装丁、分離派展のポスターのデザインなど、グラフィックデザイナーとして活躍しました。

 そして、展覧会は、分離派展と呼ばれていました。第2回展からは、「ウィーン分離派」独自の展覧会場である分離派館で開催されました。分離派館は、「ウィーン分離派」メンバーの建築家ヨーゼフ・マリア・オルブリヒにより設計され、神殿風の白い壁面と、3000枚の月桂樹の葉からなる黄金色のクーポラを持つ新奇な外観でした。そして、外壁には、「ウィーン分離派」の精神を象徴する様々な言葉や、ギリシャ神話から派出した建築レリーフによる装飾が施されています。そのレリーフの《月桂樹》《梟》などは、モーザーがデザインしたものです。

  • 《ウィーン分離派館》
  • 《月桂樹》
  • 《梟》
  • 《蜥蜴》
  • 《メデューサ》

 その展示空間は、展覧会に応じて可動壁などで空間を分割することが可能であり、当時としては画期的な自由な空間構成をとっていました。そして、展覧会ごとに展示デザイナーが決められ、独自の展示デザインを行ないました。そして、展示デザインと展示作品が同格に扱われていたことに特徴があります。モーザーは、彼が「ウィーン分離派」を脱会する1905年までの23回の分離派展で、展示デザイナーとして、最多の展示を担当しました。しかも、当時、展示デザイナーのほとんどが建築家、舞台装飾家であった中で、画家モーザーは特異な存在でした。このように、モーザーは、「ウィーン分離派」で中心的なメンバーとして活躍しましたが、内部対立のため、1905年に、クリムトらと共に「ウィーン分離派」を脱会します。

 一方でモーザーは、後進の指導にあたっていました。1899年に、ウィーン工芸美術学校校に招聘され、装飾絵画クラスの講師になりました。翌年には早くも教授に就任し、1918年に亡くなるまで務めました。

 さらに、「ウィーン分離派」の活動と並行して、インテリアの分野でも新しい会社が創られました。1903年に、企業家フリッツ・ヴェルンドルファー、ホフマン、モーザーは、「ウィーン工房(Wiener Werkstätte)」を開設しました。「ウィーン工房」は、美術建築デザイン、室内デザインを手掛けるインテリア施工販売会社でした。「ウィーン工房」には、多部門に及ぶ工房があり、家具、金属、陶芸、ガラス、テキスタイル、製本、服飾、絵葉書などが生産されました。各工房は、色分けされ、家具工房は青と白、金属工房は赤、製本工房はグレーでした。そして、製品は、デザイナーと職人との緊密な共同作業により、高い水準の製品を提供することが出来ました。

 初期には、ホフマンとモーザーが中心的なデザイナーでした。彼らは、《プルカースドルフ・サナトリウム》、《ウィーン工房ショールーム》《ギャラリー・ミートケ》《モードサロン・フレーゲ》などの公共建築、店舗のインテリアデザインを行ないました。住宅では、《テレマーレ邸》《マルガレーテ・ヘルマン邸》などを手掛けました。当時としては斬新な幾何学的形状で、幾何学文様を施した家具、テキスタイル、照明具などを独自にデザインしました。テキスタイルは、1894年に設立されたヨハン・バックハウゼン&ゾーン社によって製作されました。当時のモーザー、ホフマンによるテキスタイルは、現在でも、当時のデザインの一部が復刻生産されています。 日本の影響を受けているとも感じられる《神託の花(ORAKEL BLUME)》は、根強い人気を誇ります。

  • 《神託の花(ORAKEL BLUME)》
  • 《プルカースドルフ・サナトリウム》

 しかし、モーザーは、「ウィーン工房」での仕事に不満を抱いていたと思われます。彼は、「仕事はあまりにも多方面にわたり、注文主の趣味に左右された。彼らの多くは、自分たちが本当に欲しているものが厳密にわからないのだ。このような顧客と『ウィーン工房』との間で、しばしば意見は対立した」と、自伝的エッセイで語っています。

 その後、彼は、新たにクリムトが中心となって創ったグループ「クンスト・シャウ」のクンスト・シャウ展(1908年)の主要な展示室を担当し、展示デザイナーとして活躍しました。加えて、戯曲家、批評家ヘルマン・バール(1863-1934)による《幻影》などの舞台デザインを行ないました。また、皇帝ヨーゼフ・フランツ一世の切手シリーズ、記念はがきなどのグラフィックデザインも手掛けました。いずれの作品にも、モーザー独自の幾何学的文様が施されています。

 生涯の最後に、本来画家であったモーザーは、再び絵画制作を活動の中心に据えたのです。その伏線には、第19回分離派展で特集展を行なったスイスの画家フェルディナンド・ホードラーとの精神的な結びつきがありました。モーザーは、ホードラーの表現主義的手法、象徴主義的思想に傾倒し、対比と色彩の理論をもとに人物画、風景画、静物画を描き、《山頂》、《洞窟のヴィーナス》《自画像》といったモーザーの代表作が誕生しました。このように、晩年にも積極的に芸術活動を行なっていたモーザーでしたが、1916年に喉頭の病気を患いました。1918年、誕生日をザルツブルクでバールと過ごした彼は、その後、ジュネーブでホードラーに再会出来ました。しかし、同年10月18日にウィーンで没し、50才の生涯を閉じました。

2.《モーザー邸》の住宅のデザイン

 モーザーは、空間デザインの仕事として、展示と住宅、公共建築、店舗などの内部のデザインを行ないました。モーザーの空間デザインの時系列的年譜を見ることで、互いの関連性がわかります。

モーザの作品年譜

 この中で、《モーザー邸》(1900-01年)を見ていきます。この住宅を選んだ理由は、自邸であるがゆえに、彼自身の空間デザインに対する試みが発揮されたと考えられるからです。この住宅の内部空間は、当時の芸術雑誌『ドイツの芸術と装飾』19号(ダルムシュタット1906-07年)で紹介されました。この住宅は画家モルとの二世帯住宅で、ホフマンによる設計で、1900年10月24日に完成しました。ウィーン北部14区のホーエ・ヴァルデの角地に位置し、現存しています。外観は、白の外壁に青い破線の枠組みがアクセントとして付けられ、現在でもそのまま維持されています。モーザーは、1905年のディータ・マウントナー・マルクホーフとの結婚によって、この住宅から転居しましたが、その後もモーザーの母は1926年に亡くなるまで住みました。

《モーザー邸》外観

 内部空間は、従来にはない画期的に白い簡素な空間でした。壁には、絵画など掛けられる黒い球形の飾りが一列に付けられています。モーザーによるデザインの球形のペンダントが、玄関ホール、食堂、居間に見られます。食堂、居間は、中央を広く空けた空間であり、収納家具を壁に嵌め込むことで平面的な壁を創っています。これは、他では見られない画期的な方法でした。化粧室には、白いベンチとチェストが窓に沿って造り付けられています。チェストは脚の無い方形で、壁に嵌め込まれたベンチの間に設置することで、空間の無駄をなくしています。チェスト、ベンチ、鏡の周りには、半楕円の中に楕円を入れた独自の文様の幾何学的ボーダーが施されています。《モーザー邸》は、直線で構成された空間で、簡素でありながら、正方形、球形、市松、楕円、八角形など幾何学文様で装飾が施されたインテリアデザインでした。

  • 《モーザー邸/食堂》
  • 《モーザー邸/居間》
  • チェスト
  • 《モーザー邸/化粧室》
  • ボーダー

3.《モーザー邸》から第18回分離派展へ

 《モーザー邸》は、革新的に簡素なインテリアデザインでした。このデザインは、展示の分野で、第18回分離派展(1903-04年)に類似していることが見出されます。この展覧会は、「特集・クリムト」展で、モーザーは、ホフマンによる前室以外の展示室を総合的にデザインしました。中央ホールでは、クリムトの3部作《医学》《哲学》《法学》が初めて一堂に展示されました。

  • 《第18回分離派展/中央ホール》
  • 《ボーダー》
  • 《肘掛椅子》

 第18回分離派展の中央ホールでは、作品を引き立てるために、白い簡素な空間が創られたと考えられます。そして、モーザーが画家であるがゆえに、絵画と鑑賞者の距離が十分に取れるように、空間を広いままの状態にし、観者が余計なものに目を奪われることなく作品に集中できるように、展示室を閉鎖的にしたと考えられます。彼は、床、壁、天井の接する部分を市松文様とストライプ文様の幾何学的ボーダーで装飾を施しています。さらに、座が市松文様の方体の形状の4脚の《肘掛椅子》を、壁に沿って配置しています。この家具は、簡素な空間デザインを完成させるために創られたインテリアエレメントであるといえます。

 《モーザー邸》と第18回展には、多くの共通点が見出されます。両者とも、床、壁、天井は無地で、壁は平面的で、中央に「間」を空けた空間を構成しています。そして、家具の形状は方形で、装飾として幾何学文様のボーダーが施されています。

 しかし、住宅と展示室の違いから、相違点もあります。《モーザー邸》では、生活のための様々な家具が使われるために置かれています。一方、第18回展では、椅子だけがあたかも作品のように設置されています。また、《モーザー邸》の壁は、収納家具を嵌め込んだ用途のある壁でしたが、展示室は単なる展示のための壁でした。

  • (比較)モーザー邸
  • (比較)第18回展

おわりに

 19世紀末ウィーンにおけるモーザーのインテリアデザインは、従来までの多すぎる装飾を一掃した、革新的に簡素なものでした。このモーザーが提示した空間は、現代のシンプルな空間と印象が似ています。しかし、モーザーの場合は単にシンプルではなく、簡素な中にも幾何学的文様のボーダーを施し、独自のデザインの椅子を壁に沿って配置して、空間自体をデザインしていることがわかります。モーザーのデザインには芸術的なエネルギーが伝わってきます。100年以上前のウィーンにおいて、現代に繋がるような革新的な空間デザインを示したモーザーが果たした役割は大きいと考えられます。

 現代では、インテリアエレメントをデザインする「インテリアデザイナー」、空間を構成する「インテリアプランナー」、インテリアエレメントを取捨選択し配置する「インテリアコーディネーター」、装飾を施す「インテリアデコレーター」と、その役割によって空間デザインの仕事が分担されることが一般的です。しかし、モーザーは、これらすべての役割を担った総合的な空間デザイナーであったといえます。